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| MINさんの「あたふた訪中記」 |
(その15・最終回)![]() 17、中国8日目(9/15)、帰国。 今日は、中国旅行の最終日。最終日といっても、もうどこかを見学する予定はない。内モンゴル国際ホテルの送迎バスで、フフホト空港に向かったのは朝の6時。外はまだ暗かった。フフホト空港でモンゴルの土産物を覗いてみた。高そうな革製品が多くあったが、買う気にはなれなかった。売店の女の子たちは同僚とのお喋りばかりで、客があまりこないせいか売ろうという気がまったくみられなかった。 何事もなく、中国国内線で北京空港へ。北京空港には10時前に着いてしまった。時間はあるが、これから大渋滞のなかを北京市内に繰り出しても帰ってくるのが大変である。7時間余りを、空港の喫茶店でひたすら待つことにした。 ボイン君が、アナウンサーのハッスさんに電話を掛けた。ハッスさんが、これから来るという。昨日は夜中まで仕事で、今日の仕事は夜からだそうだ。ハッスさんが現れたのは昼過ぎ。バスで、市内から2時間かかっている。タクシーで来ても、この大渋滞では余りかわらない。それに北京の市内バスは、1回乗れば距離に関係なく値段は3元と安いのだ。ハッスさんはボイン君に荷物を預けていた。この荷物は、ボイン君と同居しているカレシへの贈り物である。その中に、テープが入っていた。彼女の肉声のメッセージと歌声が録音されているのだ。テープの表面に、録音した時刻が書かれていた。今日の日付の、夜中の1時頃の時刻である。最初から、ボイン君に持たせようと準備していたのである。一緒に昼飯を食べていると、ハッスさんの携帯が鳴った。会社からである。これから急遽会議をやるから、「出社せよ」との呼び出しである。ハッスさんは溜息をつきながら、別れの挨拶をして私たちと別れた。 ボイン君から、ハッスさんのカレシの話しがあった。彼は、モンゴル人の民族運動でも活発にしたのか、当局に睨まれているみたいである。危なくなったので、日本に留学したとの事。だから、当分中国には帰れないのだという。その内容を聞くことはできなかったが、民族運動は今でも徹底的にマークされていることが伺われた。モンゴル人の歴史を研究することも、御法度だそうだ。ボイン君たちは、中国の一部としてしかモンゴルの歴史を教わっていない。内モンゴルの大学で、自主的にモンゴルの歴史を研究していたグループが逮捕され弾圧された、と言う。その点では、日本や外国の方がモンゴルの歴史の研究が自由にされている。だから、モンゴル人のほうがモンゴルの歴史に詳しくないという、おかしな現象がおこってしまうのだ。中国は現在、実に多くのものが自由になっている。モンゴル文字も自由に使えるし、チンギス・ハーンを尊敬したからといって弾圧されることはない。しかしそれは、中国の一部としてのモンゴル族の範囲のことで、民族運動に繋がるものはいっさい許されないのだ。どこまでなら良くて、どこからは許されないのかは、私たちには見当もつかない。なにせ、当局の見解そのものが時とともに変わるからである。しかし、抜け穴はいくつもある。その1つに、海外に出ることがある。モンゴルの歴史については、東京外語大学での研究ははるかにすすんでいる。世界中の文献を取り寄せて研究できる。今の中国では、モンゴル人に関する世界中の文献を取り寄せて研究することができないことを、初めて知らされた。 長い待機の時間が終わった。やっとというか、何事もなく成田空港へ飛び立ったので あった。(終わり) |
| (その14) 16、内モンゴル民族学校専科の日本語教室へ(9/14昼) モンゴル仏教寺院のあとに、内モンゴル民族学校に行く。ここで言う「民族」とは、モンゴル族のことである。モンゴル族の子弟が、唯一モンゴル語で教育を受ける公立の学校である。専科は2年制で、日本の短大に相当する。学生達はほとんどが寮で生活する。授業が終わっても外出は許可制で、夜の10時まで自習室で勉強する。教官もついて、指導するのである。自由時間はほとんどない。自由になるのは土・日だけでだが、それも毎週ではない。この土・日に実家に帰るのである。 学校内は広大な敷地で、学生寮もこの中にある。敷地内に入ったのは昼休み前で、校庭では軍服姿の若い兵隊の号令で、学生達が軍事教練みたいなことをしていた。すぐ昼休みになり、全員がバラバラと秩序なく解散していた。バレーボールのコートもあり、皆でバレーボールをする姿が見れた。コートの前に学生寮があり、昼休みに自室で休んでいるようであった。 ジンユイさんの日本語教室を捜した。ボイン君が捜しあて、教室の中に。20人ほどの学生が、昼休みをとらずに待っていてくれた。さっそく、日本から来たK氏と私の自己紹介をした。皆、簡単な日本語が解るのだ。私は、自分の名前の由来を話した(名前の意味を聞かれたので)が、通じたようだ。モンゴル人には、名はあっても基本的に性はない。最近は、父親の名を性にすることがあるようだが、全員が持っている訳ではない。又、人により漢字名を持っている人もいるのだ。教室では、学生の質問に答える形の交流会となった。学生の質問の中心は、日本への留学のことである。そこで、K氏が自分の学校のモンゴルからの留学生の話をした。日本に留学するに必要な日本語の等級の事。日本の大学に入学するのに必要な英語力の事。日本での生活の事。奨学金のこと等々である。質問はポツリポツリとしたもので、シャイなモンゴル族は積極的に手を挙げる人は少ない。皆熱心で、食い入るように聞いているが、自分から声をあげることは不得意のようである。 質問が出尽くしたようなので、交流会は終了。次の授業も始まるのだ。ジンユイさんと昼食をとるため、学校の外に。近くの食堂に入ると、ジンユイさんがどんどん注文しようとした。私とK氏が腹の調子が悪いことを説明して、これなら食べられるだろうと思われるものを少しだけ頼んだ。本当に調子が悪くて食べられないのである。まして、バター茶など口にも出来ない。それでも注文しようとするジンユイさんに、ボイン君が強い口調のモンゴル語で説明していた。それでやっと諦めたらしく、少しの野菜とスープで昼食となった。 ジンユイさんは、学生達を日本に留学させたいのだが、親たちが心配して留学を許さないという。「2年くらいなら親の心配も少ないのだが」どうか、と言うのである。K氏は「2年では無理」と答えていた。ここでも、ジンユイさんは我々を引き留めあれこれ熱心に話し続ける。ごうを煮やしたボイン君が、「これから予定があるから」と言って、やっとお別れである。勿論、日本に留学する場合の助言はボイン君が責任をもってやる、という約束付き。日本の学校についての問い合わせは、K氏が責任をもって答えるという約束もした。そこでジンユイさんのメールアドレスを聞くと、学校にはあるが個人では持っていないと言うのだ。そういえば、北京にいたモンゴル族の学生たちもメールをやっている様子がなかった。中国では、メールが普及しているようでいてまだ一部(一部といっても、人口比だから膨大な人数になるのだが)に留まっているのかもしれない。または、何らかの規制があるのかもしれない。 ジンユイさんと別れた後、ボイン君が「あれがモンゴル人の悪いところだ」と言う。食堂でどんどん注文して、客人を接待しようとするのも「それで、自分の気持ちの満足を得るため」で、「相手のことを考えて」ではない、と言うのだ。「モンゴル人は皆そうだ」と、渋い顔をする。面白い見方だなー、と思った。これは、自身がモンゴル人だから言える事で、日本人にはなかなか理解しがたい心理である。 そこでホテルに戻ることにした。草原のゲルの後遺症で、身体が言うことを聞かない。腹に力が入らないのである。ホテルで休憩することになった。ホテルでデジカメの映像を観ていたら、ゲルでの宴会の後にテーブルをゲルの外に移し、そこで騒いでいる写真が出てきた。K氏などは、モンゴル服に着替えてポーズをとっている。私もK氏も、ゲルの外での宴会の続きのことなど全く記憶にない。記憶にない映像に吃驚である。誰かが撮っていてくれたのだ。 夜は、ホテルの日本料理店に入った。実は、昨日の夜にK氏と2人でホテル内を探検して見つけたのだ。2日続けて日本料理である。他のモノを食べる気力がわかないのだ。店は閑散としている。注文したのは、寿司定食である。にぎり寿司に天ぷらや茶碗蒸し等のセットである。日本のモノにそっくり真似ている。店の中には、大きく「北海道」という字が書かれている。北海道料理を真似ているのかもしれない。食すると、確かに鮨なのであるが「何か違う」というモノである。でも、それは仕方がないのだ。ウエイトレスの若い娘達は着物を着ている。着物に草履でスタスタと歩く。着物の大股歩きは、やはりそぐわない。調理人に日本人は居るのか聞いたが、「いない」との事。少しの英語は解っても、日本語が解る人はいなかった。 ![]() ![]() ![]() 写真1,ジンユイさんの日本語教室で 写真2,記憶にないモンゴル服を着せられたK氏 写真3,日本料理店の着物姿のウエイトレス |
| (その13) 15、モンゴル仏教の寺院へ(9/14) 昼までにはまだ時間があった。ここで、やっと私が希望していた「モンゴル仏教寺院」の見学が実現した。ボイン君の説明では、「フフホトには、小さなお寺しかない」との事であったが、行ってみるとなんと拝観には入場料を支払わなければ入れない。それに、結構な人が拝観に来ており、門前市もかなり繁盛している所であった。中に入ると、大きくはないが中規模のお寺で線香の煙がモウモウとしていた。この線香であるが、なんとも太くて大きい。日本の花火のような大きさがある。この線香を、大ダンボール箱に一杯に詰めこんで、2人がかりで運んでいる人がいた。それを、各線香をあげる場所に大量に投入して周っているのである。ボイン君に「なんであんな事をするの」と聞くと、「功徳を積むため」だとの説明だった。 さて、このモンゴル仏教である。モンゴルは、元の時代にチベットのパスパをクビライが国師として迎えた。それ以後、宮廷内ではパスパの影響でチベット仏教(サキャ派)が広まったが、モンゴルの民衆の間までは広まらなかった。元が明に追われた後、内モンゴルを統一したハーンがチベット仏教(グルク派)を民衆の内にまで持ち込み、名実ともにモンゴルは仏教国となったのである。チベット仏教の布教運動は、今の外モンゴルは勿論、シベリアにまで及んでいる。そこで、現在のモンゴル仏教圏には内外モンゴルはもちろん、ロシアのブリヤート・トヴァ共和国も入るのである。 そんな訳で、モンゴルはチベットに負けないくらいの仏教国となった。そこで、モンゴル仏教圏での仏教弾圧である。1つは、モンゴル国における1936〜39年のスターリンの直接指導による弾圧(粛正)は、近現代史上類を見ない徹底したものとなった。全土で約900あった寺廟は、わずかな寺院を残して他に転用されるか破壊された。高級僧侶2万人が「反革命」罪で銃殺された。内モンゴルでも、ほとんど同じ状態におちいった。まず、日本軍が寺院を軍事用に使い、ソ連軍が壊し、ついで中国人民解放軍が寺院を倉庫にしたり破壊し、その仕上げを文化大革命の紅衛兵がしたのである。紅衛兵の、この歴史上もっとも最悪な愚挙には目を覆うものがある。彼らの執拗な信念で、ほとんどの寺廟や尊像が破壊され、経典は焼き尽くされた。現在、寺院も再建されはじめているが、肝心のモンゴル語訳の経典はないし、僧侶も文革前の70過ぎの老僧と10代の少年僧だけ。中間がいないのだ。そして、ほとんど寺院で専従しているのは管理者1人だけ、という状況である。しかも、内外モンゴルの文化遺産といえば仏教関係のものがほとんどであった。だから、政府が仏教を認めているといっても、観光目的の範囲をでないのだ。そのため、仏教の復興は遅々たる歩みでしかない。しかし、どんなに弾圧しても民衆の宗教心を根こそぎにはできないのである。 堂の中では、尊像の前で身体を地に投げ出して熱心に祈る姿が見られた。そこには、土足で汚れた絨毯が敷いてあるのだが、そんな汚れを気にしている様子もない。お寺の中には、同じ服装の男性と女性それぞれのお坊さんがいた。昔は、お坊さんの妻帯は許されなかったが、今は自由だという。「各家庭に仏壇はあるのか」とボイン君に聞くと、自分の家にもあるし、ほとんどの家にもあるという。そんな事情が解った、お寺参りだった。 ![]() ![]() ![]() 上:モンゴル教の寺 中:段ボールに詰めて線香を運ぶ 下:密教の憤怒尊像 |
| (その12) 14、中国7日目(9/14)、フフホトの日本語学校へ。 今日は、朝から「内蒙古智力引進外語専修学院」に行く。ここは、ボイン君が日本に留学するにあたって、日本語を勉強するために通った私立の日本語学校である。日本の外語学校の職員であるK氏の、「モンゴルの日本語学校を視察したい」との希望に沿って、ボイン君がセットしておいてくれたのだ。3年前にボイン君が受けた教室に、タクシーで行った。着いた所には、学院の看板はあったが人の気配がない。ボイン君が中に入って管理人を見つけた。すると、この場所はいま学生寮になり「校舎は引越した」との事。再び、タクシーで引越し先に。そこは、真新しい立派な校舎が聳え立っていた。その発展ぶりには、卒業生のボイン君ですら驚く程であるようだった。早速、中に入った。 応対してくくださったのは、理事長の金海如さん(82歳)。金さんは、1940年代に日本に留学した内モンゴル族である。私の名刺の住所を見て、名古屋に行く予定だったのに間違えて千葉に行ってしまった、と日本での失敗談を話してくれた。「1940年代に日本に留学したモンゴル人」といえば、1つは満州国(東モンゴルが満州国に併合されていた)からか、2つは内モンゴル西部の蒙彊政権(1939年に成立した日本の傀儡政権。モンゴル人の自治運動を、関東軍に利用されたのである。正式名は蒙古連合自治政府。日本の敗戦とともに崩壊した)からの留学生である。当時の内モンゴル族の海外留学とは、日本への留学のことであった。金氏は、その数少ない日本留学生の1人だったのだ。勿論、日本語はペラペラ。少しだけ訛りがある程度で聞きやすい日本語を話す。 その金氏から、学院の概要の説明を受けた。この18年間で2000人を日本に留学させた、との事。留学先も多岐に渡り、東大に1人、国公立・私立の大学院・学部・専修科、短大、専門学校、その他である。ボイン君の担任だったという52歳の女性教師も現れた。その物腰は、まるで日本人とそっくりであった。彼女は女子学生を自宅に下宿させ、個人指導までして日本語を教えたりと、公私にわたりモンゴル族の子弟への教育に携わってきていた。やっていることは非常に熱心なのだが、その言動は控え目である。これまで、中国の女性の口角泡を飛ばすような話し方をするのを見てきたので、そのギャップに驚きを覚えた。モンゴル族の女性とは、本来はこういう人達なのかと、自分の先入観を見直したのである。 この後、いくつかの教室の授業風景を覗かせてもらった。教科書は、全て中国語であった。モンゴル語の日本語教育の教科書はないのである。日本・モンゴル語辞典もない。授業も、直接に日本語からモンゴル語に転換するのではなく、途中に中国語が介在するのだ。私からみれば、かなりややっこしいやり方にみえた。しかし、今のところは他に方法がないようであった。 予定時間になったので、視察は終了。昼からは、昨日ジンユイさんと約束した内モンゴル民族学校専科の、昼休みを利用したジンユイさんの教室での学生との交流である。これは飛び込みで入った予定であるが、同じ日本語教育の視察になるのでK氏が望んだことである。 ![]() ![]() 上:から私立の日本語学校 中:ボイン君の担任教師 下:日本語学校の生徒たち |
| (その11) 13、中国6日目(9/13)、フフホト市で買い物 K氏も私も、昼までダウンであった。やっと起きあがって食堂に行ったが、乳製品も脂っこいものも全く受け付けない。ひたすら、日本で食べたものを探して食した。ボイン君は、皆を車に乗せるのが大変だったという。彼らは、朝まで飲んで唄って騒いでいたかったのだ。そのため、酒の飲めないボイン君に酒を飲ませ、「酔いつぶせば帰らなくてすむ」と策略をめぐらしたのだが、ボインくんが「日本からの客人」を盾に飲まなかったのだ。昼になって、やっと外に出ていく気がわいてきた。日本への「土産モノ」を買おう、ということになって、繰り出すこととなった。 場所は内モンゴル民族学校の傍で、裏通りにある商店街だった。ふらふらと、一軒一軒覗きながら散策した。なかの一軒で、店番をしている青年をみたボイン君が、「日本語でなにか話しかけてくれ」とドアのかげに隠れた。K氏が本を一冊手に取って、「これはいくらですか」と尋ねると、訝しげな素振りでこちらを見たが、質問の内容は解っているようであった。そこでボイン君が現れ、2人は抱き合って再会を祝いあった。その彼は、ボイン君と一緒に日本に留学に行ったが、日本語を覚える気もなく、アルバイトもしないで、半年もしないで帰国してしまったのだという。この店は彼の父親のもので、家は裕福なのであった。ボイン君は、「彼は、何に対してもやる気がないのだ。日本にせっかく行ったのに、全然やる気を起こさなかった」と、あとで嘆いていた。 いろいろ見て回ったが、これ!という土産モノは見あたらなかった。K氏は、モンゴル草原のポスターを2枚、「学校に飾る」と買った。私は、チンギス・ハーンの顔のTシャツと草原の絵のTシャツを買った。又、中国国内線の飛行機のなかに置き忘れた帽子のかわりに、日本円で五百円程の「adidas」の帽子を買った。買い物をして店を出たら、ボイン君が「adidasと書いてあるけど本物ではないですからね」と、念を押された。札を見てみると、「メイドイン・チャイナ」と書かれてあった。 雨が降ってきた。雨宿りをかねて、レコード店に入った。K氏がモンゴル音楽のCDを買いたい、ということで探した。漢字で「草原情歌」と書かれた特大のCDセットを買って、店を出ようとしたが、雨が激しくなったので軒先で話をしていた。すると、50歳位の女性が日本語で話しかけてきた。よく聞いてみると、彼女は内モンゴル民族学校専科(日本の短大にあたる)の日本語教師をしているという。日本にも、何度か行っている人である。近くに自宅があるから寄っていかないか、と誘われた。「行こう」ということになった。その女性の名は「ジンユイ」さんという。行った先は、彼女の経営する「電話取り次ぎ店」で、国外も中国の遠距離へも安い値段で電話できる店であった。アルバイトに、民族学校専科を卒業した女の子が2人働いていた。この店は、学校を卒業しても働き口のない子ども達のために始めたのだという。 その店の奥に日本人が2人いた。男性が草深さん(66歳)で、女性が平野さんである。内モンゴル私立中学校に日本語を教えにやって来た、という。もちろん、ボランテアである。草深さんは、郵政省を定年退職し3年間ばかりオーストライアやカナダ等の海外旅行をしていたとの事。3年前、自宅のある三重県で道を歩いていた時にジンユイさんに声をかけられ、色々と話をしている内に「内モンゴルに日本語教師として来ないか」と誘われた。ブラブラと海外旅行をしているより、「少しでも人の役に立てる方が良い」と決心して、内モンゴルにやってきたのだ。平野さんは、草深さんと同じ団地の人で、誘われて今年の6月から来たのだという。 聞いていると、この3年間で7人の人を内モンゴルに誘ったという。その内の半数は、身体を壊して帰国した。帰国した人は、「もう二度と来ない」と言っていたと、草深さんは笑うのである。とくに、モンゴルに来て3日目で全員が腹をこわすという。食事が合わないのである。「私たちもそうだ」というと、「でも一週間でよくなりますよ」との事。草深さんに食事のことを聞くと、モンゴルで手に入らないものは全て日本から持ってくる、という。彼は、酒は飲めないし食事は全て自炊で賄っているのである。つまり、日本にいるときと同じものを食べているのだ。だから、もつのである。「それにしても3年間とは、凄いですね」と賞賛すると、「いやー、冬は帰国しているんですよ」「なにしろマイナス30度になるんですから、住んでいられませんよ」との事。つまり半年は日本で、半年は内モンゴルの生活なのである。「モンゴルの子ども達は純朴で可愛いですよ」「悪戯をする子もいますが、そいつには日本語で叱ってやるんです」と、楽しそうであった。 その後も、ジンユイさんに色々と誘われたが、「この後、予約がある」とボイン君が断って、ホテルに帰った。ただし、明日9/14には彼女の教室で学生たちと交流することを約束したのだ。ともかく、ジンユイさんは一生懸命なのである。その熱意があるから草深さんは、はるばると内モンゴルにまで来る気になったのだ。三重の道端でたまたま会っただけの人なのに、である。彼女に一生懸命頼まれると、なかなか断れないのだ。迷惑そうな顔をしているボイン君には効き目がないが、なかなかの「日本人たらし」なのである。 ![]() ![]() 写真1,店番をしているアルバイト。ヒマなのか、隣のアルバイトとゲームをしている。 写真2,手前右がジンユイさん。手前真ん中と左が民族学校の卒業生のアルバイト。 後右が平野さん、その隣が草深さん。 (その10) 12、草原のゲルで大宴会(9/12) 昼からゲルの中で宴会である。ぞくぞくと、モンゴル料理が出た。圧巻は、羊肉である。骨付き肉がドサッとテーブルの上に置かれた。それを、ナイフで捌いていく。皿に盛られた羊肉をみると、肉の周りにベタッと脂身が付いている。モンゴルでは、この脂身が一番のご馳走で、大事な客人に振る舞うのである。しかし日本人にとっては、この脂身はコレステロールの塊で、「体の毒」という観念が染み込んでいる。なるべく脂身を残すようにして食べてみた。確かに旨いのであるが、どうしても脂身が気になってしょうがない。 モンゴルの民族衣装を着た男女たちが入ってきた。これから、歓迎の歌を唄うという。その男の人の歌唱法をオーメン(二重発声)という。同時に、2段階の音階で唄われるのだ。モンゴルにしかない歌唱法である。ボイン君も、デレフィ・バイサ君も出来るという。デレフィ君は、馬頭琴を弾きだした。その弾き方を聞くと、まるで馬が草原を走り回っているように聞こえるのだ。さすがは馬頭琴である。さて一曲唄い終わった後、一人一人の客に酒を飲めと女の子から盃を差し出された。一気に三杯飲み干すのが作法だという。小さいお猪口がテーブルに置かれていたので、「これ位なら大丈夫」と思っていたのに、差し出されたのはなんとコップ半分も入る程の盃だった。これでは、一杯飲むのも容易ではない。なにせこの酒は、50度ちかい焼酎なのである。三杯を飲み干したときには、死ぬかと思った。そこで思い出したのが、成田空港で出発前に加入した「海外旅行保険」のことである。傷害で死亡したら5千万円、疾病死亡でも3千万円が出る契約をしたのだ。まあ、なんとかなるだろう。結局、全員が飲み干した。癪に障るので、酒を勧めた女の子にも「作法だからと」酒を勧めたら、口につけるマネだけでサッサと逃げられてしまった。 さて、ゲルの中での大宴会である。モンゴルの歌が次々に披露された。お返しに、私は「東京音頭」を、K氏は「きりぼし唄」を唄った。デレフィ君は、一度聞いただけでその「きりぼし唄」をすぐさま馬頭琴で弾き出した。見事に、きりぼし唄の曲となっているではないか。さすがはプロの演奏家である。その後、民族衣装で歓迎の歌を唄ってくれた女の子が2人、私服に着替えて入ってきた。もう、勤務は終了したのだ。この娘たちは、内モンゴル芸術大学の卒業生で、デレフィ・バイサ君の後輩なのであった。大学を出てもモンゴルでは就職口がなく、こうした観光地のスタッフとなって歌など唄っているのだ。その彼女の瞳を見ると、東洋系の黒目ではない。ロシア人のような灰色の綺麗な瞳をした美人なのである。張り切ったバイサ君が、現代モンゴル音楽をギターで弾き語り始めた。作詞作曲とも、バイサ君本人のものである。ボイン君の説明によると、バイサ君が四川省にプロボクサーとして行っていたとき、故郷に残した彼女のことを思って創った歌だという。結局、四川省でのボクサーとしての生活を捨て、彼女のいるモンゴルにサッサと帰ってきてしまった、との事。そこで、内モンゴル芸術大学に入学し、本格的に音楽の勉強をしたのだ。彼は、現代モンゴル音楽のホープの一人で、プロの歌手なのである。ゲルの中は、女の子も加わり大いに盛り上がった。彼等のミュジシャン仲間で、この観光地のスタッフとして馬頭琴等を弾く友人も駆けつけてきた。馬頭琴2つと、バイサ君のギターの三重奏がゲルの中で響き渡った。まったく、至福の時であった。 その後、どうなったか私は知らない。気が付いたら、真っ暗なゲルの中で1人だけ眠っていた。周りには誰もいなかった。一気飲みをした焼酎のせいで、気を失っていたのである。気が付いた途端、吐き気を催した。結局、ゲーゲーと胃の中のものを全部吐き出すハメになったのだ。デジカメをライト代わりにして、辺りを灯してみた。ゲルの中だと気づいた。時計を見た。夜の7時をまわっていた。皆が何処にいるのだろうと、外に出てみた。何やら騒がしい建物が傍にあった。ヨロメキながらその建物の中に入っていくと、K氏をはじめ皆が酒を飲みながら歌を唄っているのが見えた。ここでも、ガンガンのモンゴル音楽が響き渡り、今日ゲルに一泊する観光客が集まって歌を唄っていたのである。フラフラしながら幽霊のように入って来た私を見て、ボイン君が吃驚仰天。「よくここが解りましたね」と、椅子を勧めてくれたが、私といえば頭が朦朧として半睡状態である。 ボイン君が強引に「もう帰るから」と、皆を急かして車の中に。闇の中を、一路フフホトに向けて車は出発した。車の中でも私は半睡状態。暫くすると、K氏が「吐き気がする」と、車の窓からゲーゲーやりだした。夜中の零時過ぎ、やっとホテルに到着。生きた心地もなく、ベットにダウンであった。この後運転手の中国人は、延長時間の料金も貰えず、酔っぱらった大男のバイサ君に命令されて、デレフィ君達を一人一人自宅まで送り届けて帰ったという。だいたい、運転手に一人一人の客の自宅まで送り届ける義務はないのだ。それに、酔っぱらったモンゴル人から料金を取ることは至難の業なのだ。モンゴル人は、酒を飲みですと際限がない。だから、モンゴル人が酔いはじめてからの料理等の注文は、前払いでないと受け付けないという。料金など眼中からなくなってしまうのだ。小柄な中国人運転手は、追加料金の請求も文句も言いたいのに、大男のバイサ君が怖くて言えなかったのである。 |
![]() ![]() ![]() 写真1,机の上のモンゴル料理。 写真2,モンゴルの衣装で歓迎の歌を唄いにきた人達。 写真3、瞳が灰色な美人。私服で遊びに来てくれた。 |
| (その9) 11、中国5日目(9/12)、モンゴル高原のゲルに。 今日は、朝から草原に行くという。車がチャーターされていた。同行するのは、バイサ君にダブさん、それにミュージシャンのデレフィ君。デレフィ君は、馬頭琴とベースの演奏家である。彼らの名の意味であるが、バイサは「毎日楽しい」、ダブは「階段」、デレフィは「宇宙」である。みんな、ボイン君の友人でミュージシャン仲間だ。このデレフィ君、2度ほど演奏旅行で日本に行ったという。日本語は、「こんにちは」「私は、デレフィです」と、ほんの挨拶程度で、それ以上はできない。運転手は、小柄な漢民族のようであった。なにしろ、フフホトでは9割が漢民族なのだから。車に乗ると、モンゴル音楽がガンガン響き渡っていた。 遙か草原に目指して、いざ出発。車は、北に向かって山を登っていく。途中から雨が降った。気温も下がって、上着なしでは寒いくらいである。北京で、シャツ一枚でいたのが嘘のようである。モンゴルでは、秋に長雨があるそうだ。日本人は雨をそんなに嫌ったりしないが、モンゴル人は雨が嫌いである。9月末には雪も降り出し、春には湿った雪がまだ降っている。結局、6・7・8月がもっとも良い気候なので、観光客は7・8月に集中する。 山に登って行くと、草木が一部枯れ出しているのが見える。草原も、あと1週間もすれば一気に青葉が消えてしまうという。車は、延々と4時間も走り続けた。途中で、いくつかの村落を通過した。幹線道路沿いに、レンガ造りの2階屋が建っているのが一般的である。その奥に、民家が連なっている様子はなかった。ボイン君の説明によると、一村全部が漢民族だけの村落がいくつもある、という。中国では阿片戦争以後、漢民族のモンゴルへの殖民が盛んにおこなわれた歴史がある。イギリスに対する賠償を、それまで満州族の皇族なみに優遇されたモンゴルでの殖民で賄おうとしたのである。 所々に、石炭が野積みされていた。そういえば、モンゴルでは領土の3分の2の場所で土を掘れば石炭が出るという。それほど石炭の豊富な所なのである。野積みになっている石炭は、住民が無料で使っているのだろうか。そんな感じの積み方である。それに、どの村落でもガソリンスタンドが建設中だった。それも、中国石油加工(シノペック)といって、中国で1〜2位を争う大手石油企業の看板が目立っていた。 昼頃、やっと草原についた。はるばるやって来たものだ。そこは、ゲルが数百と立ち並ぶ観光地で、昔ながらのモンゴル人の歓迎の儀式が訪れた観光客に対しておこなわれていた。十数頭の白馬に跨った男達の出迎えや、モンゴルの民族衣装を着た娘達の歌声がいっとき響き渡った。そこで、各々の宴会場となるゲルに入った。中は六畳一間位の空間で、天井には空気と明かり取りの穴が開いている。ここで、バター茶や乳製品のお菓子が出た。K氏は、バター茶を飲んでいたが、私は一口含んで飲むのを止めた。なんだか、腹の調子がおかしかったからだ。 一休みして、草原を見学した。このゲルの観光地は、最初に2つのゲルから初めて、みるみるうちに大きくなったという。遠くを見ると、万里の長城に似たものが建設されている最中であった。まだまだ、一大観光地にしようと建設が進められているようであった。チンギス・ハーン時代の石弓のようなものがあった。鉄の弦で、石を遠くに飛ばす武器である。又、移動式の4輪車がついた大型ゲルも草原に展示されていた。ところで、このゲルのことである。中国語で、饅頭のようだということで「包」と書いてパオと読む。モンゴル人は、ゲルと言う。トルコ人は、ユルトと呼んでいる。 ここまで来て、急にK氏が「腹が痛い」と言い出した。それで、1人で便所に急行した。その間に、モンゴル馬に観光客を乗馬させる所に着いた。バイサ君が「乗れ乗れ」というので、私が乗ることになった。もちろん、係の人が手綱を持って引っ張ってくれた馬に乗るのである。心配したボイン君が付いてくれたのだが、馬に乗ったとたん、彼は1人でパカパカと草原を走り出してしまった。久しぶりに乗ったので、嬉しかったのだろう。それにしても、その乗馬の巧いこと。さすがモンゴル人である。モンゴル馬は背が低い馬である。それでも、乗ってみると地面が遠くに見える。腰を浮かしていたら、「背にべったり座れ」と注意された。腰を浮かすと、馬が「走れ」と勘違いして走り出すというのだ。結局、辺りを一回りして戻ったのだが、馬の背中でバランスをとるのは結構難しいものだと思わされた。落ちたら骨の一つも折りかねないのである。馬で一周した後、ゲルに帰ることにした。K氏が戻ってきた。私は、「下痢の原因は、バター茶だよ」と主張した。昔、小学校の給食で脱脂粉乳を牛乳がわりに飲まされたとき、飲み過ぎて下痢をしたことを思い出したからだ。これ以来、2度とバター茶を飲む気にはなれなかった。 |
![]() ![]() ![]() 写真1は、ミュージシャンのデレフィ君。 写真2は、草原のゲルで働くモンゴル娘たち。観光客を出迎えている。 写真3は、草原に展示されている昔の石弓。 |
| (その8) 10、中国4日目(9/11)、フフホト市を散策。 ボイン君が、実家に行くと出ていった。時間があるので、2人で市内の散策を考えた。通訳なしで、市内に繰り出すのは始めて。ホテル前の大通りは8車線もある。大通りだから、道路沿いには銀行とかの大型店が並んでいる。店の前は歩道なのだが、なぜか自動車が傍若無人に駐車している。歩きづらいので、車道に出て歩いた。だが、モンゴル人は誰も歩道を歩いていないのだ。つまり、4車線の一番手前側が歩行者兼自転車専用道路となっていて、ここには自動車は駐車していないのである。交差点で、青信号になったので先に進もうとしたら、右折車が(モンゴルは右側通行)信号を無視してどんどん突っ込んでくる。怖くて交差点が渡れない。結局、前の人の後についてやっと信号を渡ることができた。よく見ると、どうやら赤になると前進と左折は禁止だが、右折はOKなようである。それから横断歩道であるが、信号があるところはかなり離れているのである。8車線は、途中で横断できないように真ん中に柵が設けられている。ところどころが、横断歩道のマークと柵が開いていて、人と自転車が通れるようになっている。つまり、多くの横断歩道は信号なしで、自動車の隙間をぬって通るのだ。なかには、横断歩道のないところを車をぬって柵まで歩いている子どもや年寄りがいる。危なくて、見ていてハラハラする。交通ルールはあってなきがごとくで、怖いこと夥しい。でもよく見ると、ルールらしきものがあるようで、モンゴル人は皆平気で渡っているのである。これは、北京もまったく同じ風景であった。 北京とモンゴルの違うところは、北京は繁栄しているがモンゴルは寂れていること。銀行を覗いてみたが、客の姿がないのである。試しにスーパーらしき所に入ってみた。入り口の電灯が薄暗い。商品のあるところに行こうとしたら、受付にいる女性からなにやら注意を受けた。何を言っているのか分からないが、言い方が怖い。ここは入ってはいけないのかと、早々に退散した。もう一軒のスーパーにも入ったが、ここでも同じことがおこった。なにやら、私たちの持っている手提げ袋を指さしている。「袋を持って入るな」と、言っているみたいである。その迫力に、ブルってしまうのだ。別に、買い物をしたい訳でもないので、やっぱり退散することにした。 裏通りにも入ってみた。表通りは掃除が行き届いているが、裏通りは汚れ放題。表通りには掃除をする人がいて、ゴミをセッセと片づけていく。とくに奇妙な店だったのは、「美容院」である。あちこちに何軒もあるのだ。女の子が詰めているが、客はほとんどいない。なにやら怪しい雰囲気。入ったとたん、奥に通されて・・・、という感じなのだ。 モンゴルは乾燥地帯である。車が通ると、埃が舞い上がる。喉も少しいがらっぽくなった。結局、どこにも寄れずに一回りしてホテルに戻った。そこで、ホテルの隣の看板 が目に付いた。「王昭君美容○○」と書いてある。王昭君といえば、前漢(前202ー後220年)の宮女で美人の誉れ高い人物。前160年頃、宮女の肖像画を描くことが流行っていた。その絵を見て、皇帝が夜のひとねに誘うからだ。自分を選んでもらいたい宮女は、絵描きに賄賂を贈って美人に画いてもらっていた。王昭君は、賄賂を送らなかったので不美人に画かれ、皇帝の目に触れなかった。ある日、匈奴の王が漢皇帝の「女婿になりたい」と、王女との結婚を願い出た。皇室に適当な年頃の人物がいないため宮女から選ぶこととなり、王昭君の不美人の肖像画を見て皇帝が「これなら惜しくはない」と選んだのである。いざ送り出すときに面談して、その美しさに「こんな美人がいたのか」と皇帝が悔しがったという。ともかく王昭君のお陰で、漢と匈奴とはその後60年間の平和が保たれた。平和が崩れたのは、前漢が王モウに簒奪され、「匈奴」を「降奴」と呼びかえ卑しめたからである。その王昭君のお墓は、フフホト市郊外にある。今ではそこまで道路が整備され、観光地になっているらしい。それに気づいたのは、帰国してからであった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 写真1,北京からフフホトまで500q。 写真2,フフホト市内の大通りの交差点。8車線ある。 写真3,フフホトの個人商店。 写真4,商店前で遊ぶフフホトの子供達。 |
| その7 04/10/16 |
| 9、中国4日目(9/11)、内モンゴルの首都フフホトへ。 今日は朝から、中国国内線の飛行機で内モンゴル行きである。北京空港までタクシーで1時間。朝の通勤ラッシュが始まっているが、それは市内に入る車である。北京市内のタクシーは、6万台あるという。停車すると、いまにもエンジンが止まりそうな車(9/9早朝の天安門に行った時の車)から、ゆったり坐れる大型のまで様々。全体的に薄汚れていて、シートも汚れほうだいのが多い。これは、モンゴルでも同じであった。ホテル前に待機していた大型のタクシーに乗って、北京空港までスムーズに行けた。北京空港から内モンゴルの首都まで40分。「距離は何キロあるの」とボイン君に聞くと、「1000q」との答え。あれ!と思った。成田空港から北京まで2500qで3時間余りかかったのに、1000qを40分で行けるのか、ということである。あとで地図の縮尺図をみたら、500q位しかないのである。これなら計算に合うのである。どうもモンゴル人は、数字がアバウトすぎるのである。この旅行中の費用は、全部ボイン君に預けて任してある。ボイン君は領収書を貰い、その計算を一生懸命やっているが、どうみてもアバウトである。しょうがないか、なにせ遊牧民の末裔なのだから。日本人と比べては可哀想である。 さて、フフホト空港に到着である。迎えに来たのはプロレスラーのような大男のバイサ君とダブさん。ちょっと怖い人相をしている。バイサ君は、ボイン君の幼なじみでプロの歌手。ダブさんは、彼らアーチストを束ねるマネージャーである。ダブさんの車でフフホト市内に。車に乗ったとたんから、モンゴル音楽が大音響で流されていた。話も聞き取れない程の大きさだが、彼らは平気らしい。そしてこの車、中国に来て始めて車らしい車に乗った、と思わされる奇麗に掃除された新車であった。このダブさん、ボイン君に言わせると、彼の友人のアーチストたちのお陰でよほど儲けているらしい。車は、市内の内モンゴル国際ホテルへ。24階建てのホテルで、案内されたのは18階の1803号室。日本でいえば、一泊2万円もすると思われる高級ホテルである。北京の内モンゴルホテルとは雲泥の差である。こんな凄いホテルでなくてもいいのにと思うが、ボイン君の顔をたててあげなければならない。なにしろ、「モンゴル内では気持ちよく過ごしてもらおう」と、一生懸命なのだから。 ホテルで漸く落ち着いてから、ボイン君が「実家に帰ってくる」と言う。実家は、ホテルから歩いて2qの所にあるという。この実家に、ボイン君は3年間も帰っていないのである。「え!3年間もモンゴルに帰っていないの」と聞くと、昨年も帰ってきて友達と会ってきたが、実家には寄らなかったのだと言うのだ。どうやら不肖の息子らしく、実家に帰りづらいらしい。この実家も、近々引っ越しするとのことなのだ。今日の帰国についても、何も知らせていないらしい。あとで、実家に帰ったときの様子をビデオに撮って見せてくれた。お手伝いさんが新しい人で、家に入ったら「あんた誰だ、何をしている」と怒鳴られたという。「お前こそ誰だ、オレはこの家の者だぞ」と、怒鳴り返したという笑い話である。家には結婚した姉が寄っていて、日本での留学の話をしたら、「日本の悪口を散々言われた」という。母親は、具合が悪そうだったと。父親もあとで帰ってきたが、あまり怒らなかったと。いままでは、怒られると1時間も直立不動の姿勢で立たされて小言を言われたが、最近はあまり叱られなくなったというのだ。聞いていると、どうやら実家の方は早々に引き上げ、友達に会いに行ってしまったようである。私もK氏も、もしかしてボイン君の家に挨拶に行くことになるかもしてないと、お土産と背広の用意をしてきたのだが、とても行く雰囲気ではなさそうであった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 1,内モンゴル国際ホテル。2,ボイン君の友人のバイサ君。 3,マネージャーのダブさん。4,北京から内モンゴルの首都フフホトの位置。 |
| その6 04/10/06 |
| 8、北京3日目・万里の長城(居庸関)へ。 今日は、朝から万里の長城に行く。集まったのは、ハッスさんにナフティ・トウカクさんにタムラ君。さて、ライトバンに乗って出発となっても車が動かない。ボイン君と運転手が、口角泡を飛ばしてやりあっている。やりあうこと30分。その内、制服を着た女性がキップを切って運転手に渡そうとする。たぶん、「あんた、駐車違反だよ」と違反キップを切ったのだろう。すると、運転手が車から降りて「そんなの絶対受け取らないぞ。ふざけるな」みたいに怒鳴ったら、その制服女性は何もしないで引き上げていった。30分経って、ようやく車が出発。しかし、まだ車内でボイン君と運転手がやりあっている。あとでボイン君が、「だから漢族は嫌いなんだ」と事情を説明。つまり、運転手とライトバンをチャーターする会社に電話して、「○時から○時まででA元」と契約したのに、運転手は「B元だ」と言う。ボイン君が「契約違反だ」と言えば、「そんな話は聞いていない」となり。会社に電話すると誰もでない。黙っていれば運転手に馬鹿にされるだけと頑張ったが結局、運転手の言い値で行くことになったのだ。ボイン君と友人の学生だけなら、すぐ降りてしまうのだが、私やK氏がいるのでそうはいかなかった、と言う訳なのだ。北京では、契約はなきがごとく。事情が違えばすぐ変更される。ましてや相手が外国人で長城見学となれば、黙っている訳にはいかなかったのだろう。何故なら、ちょっと前まで外国人の料金は中国人の10倍近い料金を取れたのだ。料金の二重性が廃止されたからといって、こんな儲け口を見逃す手はないのだ。 そんな大騒ぎをしながら、車は八達嶺方面に。車中で、「万里の長城までは何時間かかるの」と聞くと、ハッスさんが「4時間」と答えた。え!そんなに遠いのかとおもったが、「広い中国。何があってもおかしくない」と思い直した。北京郊外を30分も走ると、見渡す限りに巨大な高層マンション群が現れた。東京の御台場周辺のような、高層マンション群である。聞いてみると、この辺は少し前までは畑しかない所だったとの事。改革開放経済でお金を手にしたものが、マンションを買い自動車で北京まで通勤するのだ。北京はそのため、朝晩の通勤ラッシュの大渋滞となってしまうのである。ナフティさんに「北京から長城までは何時間かかるの」と聞くと、「1時間」との答え。え!さっきは4時間と言わなかったかな、どうなっているのやら。日本語がよく分からなくて4時間と言ったのか、長城といっても沢山あるので行く先を八達嶺と間違えていたのか、よく分からないのである。 ナフティさんが、「長城を何故築いたか知っていますか。漢族が、モンゴル人を恐れて造ったのです」と、胸を反らし誇らしげに言った。もちろん、漢族にとってはモンゴル人の侵攻を防ぐために築いたのだが、それだけではないのである。長城は、戦国時代になってから各国が築いたのだが、北辺の長城(燕・趙・秦)と中原内に築いた長城(楚・魏・韓・斉等)では内容が違うのだ。中原内の長城は外敵を防ぐためだが、北辺の長城は逆なのである。つまり、遊牧民族の領土を支配し、その地方の民族を蹴散らすための侵略の砦として造られたのだ。だから秦・趙の長城は、今の内モンゴル自治区の中にくい込んで築かれている。趙にいたっては、内モンゴルの首都フフホト市の北方まで長城を築き、当時の豊かだった平原を掠め取っていたのだ。「遊牧騎馬民族の侵攻」というけれど、彼らにとっては単に失地回復を目指したにすぎないのだ。だからこそ、執拗に「侵攻」をし続けたのだ。そんなことをナフティさんに言って、徒に「モンゴル人の誇りを傷つけて」はいけないのだ。 さて、車は高速道路をフルスピードで走って1時間余り、居庸関に着いた。この運転手、シートベルトもしないでフルスピードで走る。昔の日本の「神風タクシー」みたいで、ちょっと怖い。やっと、万里の長城に到着である。この居庸関、万里の長城といっても北京を守るための2重の長城の内城なのである。八達嶺が、前線の長城となるのだ。特に居庸関は、明の時代にモンゴル人の侵攻を防ぐことを目的に築かれたのである。さすがに、北京から一番近い長城とあって、観光用に整備されている。欧米人も多く、大きな腹を抱えてひたすら頂上を目指して上がっていく。コースは、上がりのコースと下りのコースと分かれ、休み休みで3時間である。全部石段で出来ているのだが、その石段の高さが1つ1つ違うのである。10p位から50p位まで、その高低差にも悩ませられながらひたすら頂上を目指した。全身汗まみれである。さすがに、頂上付近になると風が冷たくなり爽やかであった。 さて万里の長城の全長である。渤海湾に突き出た山海関から甘粛省の玉門関まで6000qある。漢代の長城は、7930qあったというから驚きである。この時代は東は楽浪郡、つまり今の朝鮮の平壌(ピョンヤン)の近くから玉門関の先のロプノールの先まであったのだ。「母と子でみる 万里の長城ー6000q、世界初踏査記 上・下」(草の根出版会・内海寛子著・各2200円)によると、玉門関から山海関までの6000qを完歩し、甘粛省の敦煌から新彊ウイグル自治区コルラまでの1336qは4WDで走行した、とある。踏査期間は10年に及んでいる。 あと少しという所で、ハッスさんがゼスチャーで「競争するか」と言うので、2人で階段を駆け上がった。さすがにゼイゼイしたが、日頃プールで鍛えているせいか、息切れもすぐに治まった。「凄い、スゴイ」と褒められたが、あとで私が57歳でK氏が59歳と聞いたボイン君が「もし年齢を知っていたら長城なんかに登らなかった」と言う。年を40代だと思っていたそうである。自分の母親は60歳に近いが「万里の長城に登ろう」と言ったら、「何を考えているんだ、馬鹿」と怒られてしまう、と言うのであった。 |
左:長城の頂上下:長城の塀に上って絶壁に ![]() |
| その5 04/09/29 |
| 7、景山(9/9) 紫禁城の裏門である神武門を出ると、道路の向こう側に景山の入り口門がある。ところが、この道路を渡れない。柵があるのだ。いったい、どうやって向こう側に行くのか。見ると、随分先の方に横断歩道がある。堀の曲がり角の方だ。そちらに向かって行くと、物乞いが何人も手を出してくる。北京在住の日本人のHPに、この物乞いが帰宅するとき高級車に乗り込んでいたのを目撃した、とあった曰く付きの物乞いである。天安門の方には1人もいなかったのに、裏門にはかなりいる。無視すると、強引に腕を掴んでくる奴もいた。振り切ったのだが、あまり邪険にすると「なんだ日本人」と暴れ出すのではと怖かった。これも、あとで人民日報のHPを読んだら、「物乞い禁止令」を北京市が出そうとしたが止めた、とあった。理由は、「そんなに多くないし、天安門の方にはいない」からだそうだ。成る程、天安門では物乞い自身が自主規制(又は、相当な締め付けが暗にあった)していたのである。兎も角、疲れた足を引きずって横断歩道まで。やっと、目の前の景山の入り口にたどり着いた。そこで、故宮の方から景山の方に地下道が設けられていることを発見した。どうも変だと思ったのだ。こんな遠い距離を観光客が歩く訳がないのだ。 この景山というのは、明の時代に宮城を築く際に出た残土を積み上げた山なのである。当初は、ここに石炭も積み宮城の燃料置き場にもなっていた。その後、万歳山という名称もつけられ整備された。景山の頂上にあがると、紫禁城の全容が一望できる。景観がとても良い。ここに、明の最後の皇帝・崇禎帝の「首をつった木」があるというので探した。場所がわかり、記念碑の石版に説明が書かれていたが、木そのものはどれかは分からなかった。もっとも、自殺(1644年)してから300年以上経っているのだから、当時の木がそのままある訳がないのだろう。崇禎帝は、農民反乱軍の李自成に北京城を包囲され、皇子を落ち延びさせ、皇女を斬り、皇后も自殺させて首をつったのだ。当時の明軍の主力は、山海関で満州族の清軍と睨み合っていて留守であった。山海関を守っていた将軍・呉三桂は、北京城落城の報を聞き烈火のごとく怒った(一説では、自分の愛妃を奪われたので)。即座に、清軍の協力を取り付け北京の李自成に襲いかかった。李自成は三日天下で終わり、西安まで落ち延びたがそこで殺された。呉三桂とともに北京に入場した清軍は、そのまま北京城に居座った。そして、中華の主に収まったのである。 景山に登っていくと、途中の四阿に変なモノがあった。台座だけ残っており、上の像が持ち去られている。同じものが4つあった。何だろうと説明を見ると、「1900年に、列強8カ国の略奪にあった」と読むことができた。台座の像が持ち去られたのは、像に塗られた金箔を剥がすためだったのだ。いわゆる、1900年の義和団事件である。この時、8カ国の外国軍が紫禁城を初め西太后の頤和園(清国海軍の数年分の軍費を流用して建設された。そのため日清戦争の際に、清国は分かっていながら海軍の増強をできず日本に敗北したと言われる)の宝物も根こそぎ略奪したのである。この頤和園には、西太后のご機嫌伺いに中国全土に派遣された官僚たちが、その地方の宝物を献上する列が切れもせずに連なっていたため、宝物が入りきらなかった程のものだったのだ。とくに酷かったのは、ロシアとドイツ軍の略奪であった。この際、光緒帝と西太后は西安まで逃れ、帰ってこれたのは1年半後である。その間、無政府的な略奪が北京全土に及んでいたのである。歴史家は、清国は事実上この時に崩壊した、と言っている。勿論、日本軍もこの8カ国の一員なのである。 |
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| 景山頂上から見た故宮の全容 |
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| 景山の四阿にあった台座。上の像は持ち去られている |
| その4 04/09/28 |
| 5、北京2日目・天安門広場(9/9早朝) 毎朝5:50に、天安門広場で国旗掲揚式がある。5:30にタクシーでホテルを出た。広場でタクシーを降りたとたん、中国国旗の小旗を渡された。「無料じゃないだろう」と思っていると、案の定ボイン君が1個1元の代金を徴収されていた。天安門は、言わずと知れた故宮の正門である。テレビでよく見るように、毛沢東の肖像画とスローガンが掲げられている。広場の真ん中は、大きな工事の最中らしく花壇らしいものや照明の装置が置いてあり、縄が引かれて人が入れないようにしてあった。帰国後、インターネットで「人民日報」のHPを観たら、これらは2008年の北京オリンピックのカウントダウンをする時計台と、周りの花壇であることが分かった。早朝のこの日、広場には千人以上の人が集まり、国旗掲揚式を待っていた。殆どが中国の地方からやって来た観光客で、揃いの帽子などを被ったりしていた。地元の北京っ子は来ない、という。時間になると、儀仗兵が整列し音楽が流され始めた。いよいよ国旗の掲揚なのだが、式は淡々とすすめられアッという間に終わっていた。その頃には外も明るくなったので、衛兵が交代する様子などを眺めていた。 K氏の提案で、帰りは地下鉄で行こうとなった。ホテルまでは1駅で、1人3元(約42円)の料金。地下鉄に乗る入口の階段の所に、切符を売る小屋(1人が坐るスペースだけ)があった。この地下鉄は、東京の山の手線と同じく循環しているものだ。天安門東駅から隣の王府井駅まで。朝が早いせいか、車内は空いていた。ホテルは、王府井駅と東単駅の中間にある。歩いて帰ると、商店の開店準備をしていた。その商店の前で、従業員が整列し軍隊式の運動を掛け声をあげてやっていた。一種のデモンストレーションだと、ボイン君の説明。又、公園で太極拳の練習をしているのも見かけた。途中、露店で果物などを買った。ボイン君が、外国人だと思って吹っかけてきたという。 ホテルに到着して、バイキング形式の朝食にありついた。この朝食、モンゴルのホテルだからか、お茶はバター茶しかなかった。バター茶といっても、バターが入っているわけではない。モンゴル人が、朝昼晩に限らず常に飲んでいるものだ。「お茶」といわれたので、飲んだ。随分ミルクっぽいお茶だと思ったが、お茶はこれしかないので気にせずに飲んだ。ところが、これが曲者だったのだ。私とK氏は、炒飯など日本でも食べていたようなものを選んで食べた。ボイン君は、なんと殆ど肉饅頭中心で米類など食さない。あれもこれも「美味しいよ」といわれ、朝食なのに腹いっぱい食べてしまった。 確かに美味しいのであった。 6、故宮博物院(9/9) この日、午前中と午後にかけて故宮博物院に出かけた。10年前は入場料は二重制で、外国人料金は中国人の10倍もしていたと聞いていたが、今では同料金になっている。この料金の二重制、国内では飛行機も列車も全てにあったが、随分前に撤廃されている。さて、この故宮博物院はもちろん紫禁城のことである。主に宮殿の楼閣を見学するのだが、なにせ敷地72万平方bで殿堂が890棟もあるのだ。とても全部など見学できない。ボイン君は、「99カ所の門や建物を見学できる」と言ったが、案内図によると36カ所にだけ番号がふってあった。それに、全体の3分の1は現在修復工事中であった。この案内図の35番に、「珍妃井」というのがあった。浅田次郎の小説に、「珍妃の井戸」(講談社版)というのがある。なぜ光緒帝の愛妃である珍妃が、1900年の西安蒙塵の際に井戸に投げ捨てられて殺されたのか、そのミステリーを解明しようとする英・独・日・露の4人の貴族たちの物語である。K氏も、この本を読んでいたとの事であった。 ほとんど脇目もふらず、正門から入って裏門の神武門まで直線コースで見学をした。途中、疲れたので緑のある庭園で休息した。ボイン君が建物を観ながら、「これはいつ頃出来たのかネー」と言うので、私が説明をした。このボイン君、中国の歴史のことをあまり知らないのである。もともとこの北京は、元の時代にモンゴル人が中国を支配するため「大都」を設けた場所である。内モンゴルには「上都」を築いた。それが、元のあとの明の時代になり、三大皇帝の永楽帝が1417年(永楽15)南京から都を移し、元の宮城跡に築いたのだ。明・清の交替時に大破壊を被ったあと、清がほとんどその規模を受け継いで修復し、今日にいたっている。この紫禁城、南半分は外朝で北半分が内廷(日本の大奥)となっている。各門に壁額がかかっていて、太和殿とか乾清門とかあるのだが、途中からモンゴル文字が並んで書いてあった。これを見て、ボイン君が吃驚しているのであった。 |
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| 天安門広場前 |
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| 公園での太極拳の練習 |
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| 故宮内部 |
| その3 04/09/27 |
| 4,北京内蒙古ホテル(9/8) 北京空港からタクシーで1時間、今夜の宿舎に到着。北京内蒙古ホテルである。天安門広場から、地下鉄で1駅と半分程の距離にある。さすがはボイン君、北京にいても漢民族のホテルには泊まらない。「このホテルなら安心。変なことはされない」との事。このあたりで、漸くボイン君が漢民族に反感を持っていることが分かりはじめた。ホテル内に入ると、若い女の子たちから歓迎の嵐。日本語で「こんにちは」と握手された。こちらは「セーノ」と挨拶。「ニーハオ」ではない。何故なら彼女たちは、モンゴル人だから。目上の人なら「チセーノ」と挨拶する。これが、モンゴル語の挨拶である。彼女たちは、北京にいるボイン君の友人たちだった。さっそく、夕食を兼ねた歓迎会がホテルの食堂内の個室で開かれた。 来てくれたのは、ナフチィ(木の葉)さんとトウカク(清純)さん。ともに、北京民族大学の4年生で、第2外国語に日本語を専攻している。タムラ(鉄)君は、同じ大学の3年生。ジャスカさんは、北京科学大学生。この人は、どうした訳か英語名で名乗った。奇麗な英語を話すが、日本語はダメである。ハッス(玉)さんは中国の放送局に勤務で、唯一の勤め人。今年の4月から週1回、日本語を勉強し始めたという。堂々と、日本語で話しかけてくる。仕事は、中国発の全世界のモンゴル人を対象にしたラジオ番組のアナウンサーである。高給取りだそうだ。彼女のカレシが、いま日本に留学していてボイン君の同居人となっいる。ハッスさんが日本語を勉強しているのは、「日本に留学して、カレシと一緒に居たい」からなのだ。随分と情熱的である。それに、背が高くて奇麗な人であった。ナフチィさんが、「彼女、モデルさんみたいでしょう」と讃えるほどである。中国でアナウンサーになる条件は、美男・美女で身長も○○p以上と決められていると、日本のNHKで「中国語講座」を始めた、中国人アナウンサーが書いた本で読んだことがある。この条件は、中国の国威を示すために付けられたそうである。 宴なかば、誰かが歌い出すと全員での合唱となった。モンゴルの古い唄である。聴いていると、「草原の匂い」がするのであった。内容を聞くと、子どもたちのため家族のために、泥だらけになって働いている故郷のお母さんのことを歌った唄だという。ボイン君の説明では、「みんな、モンゴルから遠く離れてお母さんが恋しいんですよ」と。K氏が、「お父さんの歌はないの」と聞くと、ハッハッと笑われた。「お母さんは働くけど、お父さんは働かないで遊んでばかりだから、歌にならないんだ」とは、K氏の解釈である。すると今度は、タムラ君が立ち上がり詩の朗読を始めた。情感を込めて暗唱詩の朗読を始めると、隣でハッスさんが朗読のリズムに合わせて歌を唄い出した。さすがはアナウンサー、奇麗な声であった。モンゴル人の傍には、いつも音楽と歌声があることにそれ以後気づかされるのだが、これが最初の出会いであった。 |
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| 歓迎会に来てくれた北京の大学生達。 |
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| アナウンサーのハッスさん。 |
| その2 04/09/23 |
| 3、北京空港(9/8)、すわ!トラブル発生か? 北京着は、現地時間で17:50。日本とは1時間の時差である。耳栓のせいかどうか、耳が痛くなることもなく到着。ところが、空港内のチェックポイントでパスポートと入国カードを提出したら、女性係官に何か言われて、ポンと投げ返されてしまった。身振りで、「向こうに行け」と列の後ろを指された。それっきり、「私には関係ないもん」という態度でニコリともしない。何が何だか分からない。困った時のボイン君。先に入国してしまったボイン君に声を掛け、「この人、何を言っているの?」と。ボイン君曰く、「入国カードの記入が鉛筆だから、ボールペンで書き直せ」との事。この入国カード、中国人は漢字で記入するが日本人は英語で書くようになっている。間違えると思って鉛筆で書いた。英語が分からなかったが、裏の中国語の欄をみると これが分かるのである。漢字は、現在中国漢字の簡略字なので分からない字ばかりだが、それでも漢字なのである。英語より分かるのだ。仕方なく書き直して列の最後尾に並び直した。成る程、さすがは中国。日本式のサービス精神などは持ち合わせていない。中国語以外は、一切話そうという気がないようであった。ようやくロビーに。ロビーに荷物を置いて、ボイン君とK氏は中国銀行の窓口に向かった。 ボイン君が言うには、「不要な現金は持たずに銀行に預ける」「旅行に必要な費用だけ、円を元に換金」して、自分が持っていると。因みに、この時の為替では1元が約14円であった。そして、この銀行窓口である。窓口はいくつもあるのだが、各銀行で1つしか開いていない。空港から入国者がドッと出て、みんながこの窓口に並びだした。すると、関西弁で窓口の女の子を怒鳴りつける日本人がいた。ロビーの方からでは、何を言っているのか分からないが随分と品のない行為で、嫌な気分になった。本気で怒っているのかどうか、怒鳴った後にニヤニヤ笑っているのだ。後でボイン君に聞いたら、「窓口がたくさんあるのだがら、こっちも開けろ」と言っていたのだとの事。「でも、窓口の子に言ってもしょうがないよね。その上の人に言わなければ」 と、ボイン君。私は荷物番でロビーに。ところがこのロビー。換金を待つ人が多いのに、荷物も持たず、携帯電話を片手に長椅子の端に腰掛けている中国人がいるのだ。それも1人ではない。似たような風体で、そこかしこにいる。人を待っている風でもなく、電話が掛かってくるでもない。結局、30分近く坐ったまま、スーといなくなってしまった。初めての海外旅行とあって、こんな人物にも緊張しまうのであった。何かあった時の証拠にと、荷物を撮るふりをしてデジカメでこの人物の写真を撮ってしまったのである。 |
| sその1o 04/09/21 |
| 1,前 3年前に、パソコンで名刺を作った。肩書きを何にするか考えて、「自称・チャイナウオッチャー」とした。職場で印刷をしていたら、同僚に質問された。「中国に行った ことがあるの?中国語は話せるの?中国人の知り合いはいるの?」と。答えは全て「否」である。同僚曰く、「そりゃー駄目だ」。 苦節3年、ついに中国に行くことになった。9月8日から15日の8日間である。案内人は中国人。もっとも、内モンゴル自治区のモンゴル族である。誘ってくれたのは、友人で都内の英語学校勤務のK氏。この学校の卒業生で、東邦学園大学の専科でドラムを専攻しているボイン(宝音)君という留学生が、「一時帰国するので案内をするから、行かないか」と言う。滅多にない機会だから「行こう」、となったのだ。 さて、海外旅行は初めてである。何を持っていけばよいか分からない。そこで、旅券事務所の前にあった「トラベルグッツ店」を覗いてみた。そこで買ったものは、@パスカード入れ、A腹巻き型貴重品入れ、B飛行機用耳栓(気圧対策)であった。耳栓を買ったのは、新婚旅行で沖縄に行ったとき、往復の飛行機で気圧のため耳が痛くなったからだ。以来、飛行機には乗っていない。北京までの2500q、飛行時間3時間余が耳の痛いままでは堪らないと思ったからだ。 2,搭乗(9/8) 海外旅行は初めて、従って成田空港のなかに入ったのも初めてである。待ち合わせ場所は、空港第二ターミナル3階Hカウンター付近。空港とはこんなものか、とは思ったが何が何だかよく分からない。到着すると直ぐに、K氏とボイン君が現れた。ボイン君28歳、さすがドラマーとあって軽快で軽薄な感じ。チャラチャラと、金属品を着る物に装着している。また遊牧民の末裔らしく、茫洋としているのだ。乗るのは、中国国際航空公司の926便。ボイン君から、北京に着いたときの注意事項があった。空港職員の態度が悪い事、「ありがとう」と言わない事、頭を下げない事である。頭を下げたら、中国では馬鹿にされると言うのだ。搭乗にあたり、ボイン君だけが危険物検査に引っかかっていた。身につけていた金属品を、全て取り出す羽目にあっていた。 いよいよ飛行機の中に。K氏と、トラベルとトラブルについて話し合った。トラベルもトラブルも、昔は一つの言葉であった。トラベルとトラブルは同じ意味だったのだ。それが、トラベルが比較的に安全になりだして言葉の意味が分かれたのだ。今回、どんなトラブルに遭遇するか。トラブルに弱い質の私が、何故かトラブルを楽しみに感じていた。そもそも、ボイン君がどんな人物かが分からない。K氏曰く、彼に対する信頼の「人質」を取ってある、と言う。つまり、今現在にK氏の英語学校に通っている30人の内モンゴルからの留学生の、ボイン君に寄せる信頼が人質なのだ、と言う。彼らの信頼を失えば、ボイン君がモンゴルで生きていくことが出来ないのだ。彼の父親は内モンゴル自治区政府の副主席なのであり、彼も内モンゴルの有名人なのである。 |