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MINさんの「あたふた訪越記」
あたふた訪越記N

(写真は、バンベオ料理)
17、4月7日・バンベオ料理を食し帰路へ。
 ロビーにずっと居て、気がついたことがある。フロントや売店のスタッフが屋台の料理を出前に頼んでいたことだ。主な食べ物は、丸い団子のようなものだ。「バンベオ」という料理名だと云う。たぶん、お米で作った団子である。皆が食べていたので、その出前に来た女性に「同じモノを」と注文してみた。余ったベトナム貨幣の小銭は、もう両替できないので使い切ってしまおうと思ったのだ。2皿で2万ドンだが、小銭は15.000ドンしかなかった。小銭を全部出して、「これでどうか」と交渉したが、5.000ドン足らないと断られた。仕方がないので、1ドル札と5.000ドンで払った。ベトナムの小銭が1万ドン残ってしまったのだ。もう使い道がない。2人で分けて、日本に持ち帰ることにした。さて、バンベオ料理である。火を通してあるし、皆が食べているから安全だと言い聞かせて食べてみた。作ってから時間が経っていたのか、冷めている。団子はツルッと喉を通ってしまった。鷹の爪のような辛さが喉を刺激したが、不味くはない。火を通した肉や野菜が少々。あっと云う間に食べ終えた。これで夕食では、少な過ぎる。たぶん、スタッフは仕事を終えて家に帰ったら、本当の夕食を食べるのだろう、と思われる量なのである。そんな私たちを、スタッフたちはニコニコ笑いながら見ていた。たぶん、「物好きな人だ」とでも思っているようだ。暫くすると、私だけ便意を催してきた。別に下痢をしたわけではないが、なんとなく腹の具合がおかしい。結局、3回ほど便所通いをして、ようやっと治まった。やっぱり、屋台モノはダメだったかな、と後悔してしまった。でも、それ程のこともなかったので良かった。これで当たったのでは、目も当てられない。飛行機の中で下痢でもしていたら、日本に着いたとたん強制検査に回されてしまうところであった。夜の10時頃、迎えの車が来た。来た時と同じ人間を乗せて、空港に向かった。空港に着いてチェックインすると、空港使用税12ドルを支払う。これは、旅行代金に含まれていないので、あらかじめ用意しておいた。あとは、飛行機の到着を待つだけ。待合いロビーで、ベトナムのテレビドラマが放映されていたので観た。刑事モノの活劇ドラマであった。言葉は分からなくても、内容は単純で観ていれば理解できた。悪役と善玉がハッキリしていて、身振りも大げさな勧善懲悪ドラマなのだ。別のテレビでは、中国の武闘ドラマを放映していた。こちらは、宙を飛んだり断崖を駈け上ったりと人間離れしていて、なんだかよく分からなかった。それに、日本の忍者が登場したのには驚かされた。日本の忍者は、悪役として判りやすいのだろう。そうこうしている内に、10分遅れで飛行機が到着。ベトナム時間で8日の零時を過ぎて、やっと日本へと飛び立ったのである。ヤレヤレ、何の事故もなく帰ることができた、という次第。(完)


あたふた訪越記M

(写真は、メコン川ツアーでの昼食の食堂の受付娘)
16、4月7日・モンディアルホテルのロビーで。
 ドンコイ通り周辺でのショッピングを終えた。コクさんには、お礼に「食事を一緒に」と誘ったが、丁重に辞退された。次の仕事がある、と言うのだ。全体的に、ベトナム人はでしゃばった感じがない。日本人が忘れてしまった、「奥ゆかしさ」があるのである。食事を終わったら、後はすることがない。後は、ホテルのロビーで空港への迎えを待つだけである。そこに、40代後半の日本人男性がやってきて、フロントのベトナム娘に大声で話しかけていた。「チョコレートをあげる」とか、「日本にくると言っていたが、来たのか」「来たのならなぜ連絡をくれない」等々である。その声の大きいこと。普通の人の3倍はある。ロビー中に響き渡っていた。尚且つ、方言がきつく(どこの方言か分からなかった)乱暴な言い方なのである。「食事に行こう」等々、一方的に話しかけている様子から、どうやらフロントの女性を口説いているようである。ベトナム娘は、迷惑な顔もせずニコヤカに笑ってはぐらかしているようであるが、明らかに困った様子である。それなのにその男は、何もきづかないどころか周りのことも気にせず幼稚なことを怒鳴りちらしていた。当初、精神に障害を持った男が子どもじみたことを言っているのか、と思ったほどである。しかし、その言説の内容は子どもじみているだけでなく、明らかにベトナム人を馬鹿にしている内容で、聞いているだけで怒りがこみあげてしまうのであった。そもそも、チョコレートで大人の女性を釣ろうと云うこと事態が常軌を逸している。そのうち、「円をドンに替えてくれ」と要求し、レートの違いで延々と文句を並べ立てだした。堪りかねた「日本語ガイド」の女性が間に入り、日本語でレートの説明をしてやっと決着がついた。その男が部屋に引き上げ、ロビーもやっと平穏となった。なんと、その時間たるや1時間以上にも及んだのだ。フロントの女性は、何処かに姿を消してしまった。便所で、泣いているのかもしれなかった。その間、電話か掛かってきても誰も取らないし、フロントに預けた荷物を、客がかってにフロント内に入って取っていくしと、無用心このうえない。なにしろ、フロントの奥には「貴重品預かり」の箱が無造作に置いてあるのだ。勿論、私たちの現金も航空券もそこに預けてある。やがて、さっきの男が部屋から戻ってきた。フロントに誰もいないと気づき、詰まらなそうにチョコレートの束を投げ置いていった。夜の巷に、出て行ったのである。ベトナム人のアンケートによると、好きな国の1位はフランス、2位が米国である。日本はかすりもしない。かっての侵略国が上位になるのも不思議だが、日本でも1位が米国なのだから不思議とは云えないのだろう。さて、その日本である。02年のベトナムへのODA(政府開発援助)の供与は924億円(04年は926億円)である。これは、国際機関や支援諸国の援助額(3052億円)の30%、ベトナムの03年国家予算の歳入の9%に相当する。日本の援助はダントツなのである。しかし、日本の顔は見えてこないのだ。かってベトナムでは、日本とフランスの共同支配下にあった1944年末から45年にかけて、北部は深刻な飢餓に見舞われた。200万人の住民が餓死したのだ。その原因は、@進駐した日本軍と為政者が農民から全ての米を供出(強制買い上げ)させた(当時の日本軍は、食糧を「現地調達主義」で賄っていた。つまり、略奪である)、A44年秋以降の台風の相次ぐ襲来と、紅河の氾濫、Bアメリカ軍の爆撃による輸送路寸断で、南部の余剰物資の輸送遮断にあったと、1995年の「日越共同学術調査」が明らかにしている。日本の援助の理由も、このことと無関係とは云えないのである。ホーチミン市内を歩くと、ひと目で日本人と判るのか日本語で声がかかる。「おんなおんな」「チョメチョメ」と言うところをみると、日本人男性がその手のアキナイになると知っているから、声をかけるのである。そんな民族を尊敬する訳がない。現に、ロビーで関西からやってきたらしい4人ずれの男性グループの会話は、その手の夜の店のことであった。なんとも情けなかった。


あたふた訪越記L

(写真は、ホーチミン市郊外の道路脇での魚の行商)
15、4月7日・ホーチミン市で買い物。
 クチトンネルとカオダイ教のツアーは、これで終わり。あとは、昼食を摂ってホテルに帰るだけ。ホテルと云っても、もう部屋を明け渡してしまっている。1階のロビーで待機して、夜中にタン・ソン・ニャット空港に行く迎えを待つだけだ。ところが、帰りが渋滞が始まる前に市内に入ることができたから、予定の2時間前の午後3時にホテルに着いてしまった。飛行機が出発するのが23:55だから9時間もある。ホテルに戻って、預けておいた荷物を整理していたら、バッタリとガイドのコクさんに会った。どうしたか尋ねると、ここの1階の「日本語ガイド」がコクさんの仕事場の1つなので寄っていたのだ、と云う。そこで、「もし、買い物をするなら時間があるので案内します」と申しいれてくれた。渡りに船とばかりに、ホテルの近くのドンコイ通り周辺をぶらぶらとショッピングすることになった。これまで、国営デパートの値札どおりの買い物しかしなかった。サイゴンは昔から、闇社会のはびこっていた所だった。南が開放され社会主義国になっても、アンダーグラウンドな世界を掌握することはできなかった。そればかりか、日本の戦後と同じように秩序維持のために闇社会の力を借りてしまったのだ。ミイラとりがミイラになるの諺のとおり、ホーチミン市の警察・軍・公安・検察・マスコミの上層部が闇社会に取り込まれてしまった。賄賂によって、マフィヤに牛耳られたのだ。これら上層部とは、皆ベトナム共産党の中央委員という役職も持っていた。マフィヤのボスは、何度逮捕されても暫くすると釈放されていた。そのマフィヤのボスが死刑となり、共産党の幹部たちが実刑となり牢屋に入ったのは、つい最近の03年のことである。ようやく、1つの戦後が終わったのだ。とは云え、ホーチミン市をひとたび歩くと頻繁に声がかけられる。日本語で、「おんなおんな」「チョメチョメ」と。それに、色とりどりのアオザイ姿の女性から頻繁にマッサージの勧誘がされる。それは、本当に煩わしい。事情の分からない私たちには、街をぶらぶら歩くことへの恐怖感ともなっていたのだ。そこで、コクさんが案内してくれると云う。まず、Kさんが家族のお土産を探しに歩いたが、適当なモノが見つからない。娘さんに頼まれた腕輪を見つけ、それを買っていた。それに、ベトナム音楽を3種類。昔のモノと最近の若者向けの歌モノと、音楽だけのモノを試し聞きして買った。こんない細かい注文は、コクさんがいなければできなかった。ついでだから、私も買うことにした。Tシャツを覗いていたら、「安いよ安いよ」と店員がカタコトの日本語を使って次々と持ってくる。5着も持ってくるので、「1着でいい」と断る。それでも「これも買え」と、2着押し付けられた。ホーチミンTシャツが1着3ドルだったので、「2着で4ドルでどうか」と値切ると、あっさりとOKとなった。これには、こちらが驚いた。最低でも4分の1は値切れる、と本に書いてあった(最高は2分の1。しかし、これだけ値切ると嫌われるとも書いてあった)が、3分の1でもあっさり承知したのであった。メコンデルタツアーで一緒になった女性が、帰りに市場で車を降り「買い物してからタクシーで帰る」と言っていたのを思い出した。正価でも日本の半分の値段なのに、それも値切れるのだ。女性にとっては、こんなに楽しい買い物はないのだろう。コクさんも、3歳の娘のためにテレビのアニメ曲のCDを買っていた。子どもが可愛いくてしょうがないようだ。


あたふた訪越記K

(写真は、天眼)
14、4月7日・カオダイ教の礼拝。
 総本山の大本殿に入ると、神殿はけばけばしい色彩に彩られているが、内部は清潔な雰囲気である。儀礼は儒教の方式が採用されており、一般信徒は白い礼服(アオザイのようなモノ)で祈りを捧げる。役職者は9階級に分けられ、中央にある祭祀場所に向かって、上の階級から別々に整列して礼拝するのである。中央の祭祀場所の正面に、見開かれている「眼」がある。これが、「天眼」である。カオダイ教の主神を象徴するもので、信仰の対象となっている。眼は左目である。神の光は全宇宙を照らし、神の眼は万物を見通すという意味だ。カオダイ教の教義の基本は、「あらゆる宗教は一つである」と云うもの。世界のさまざまな宗教は、人類の理想として結局一つの教えに帰着するという考えだ。この実現のために、対立と差別ではなく、博愛と公平を掲げているのである。今日の宗教戦争や、キリスト教とイスラム・ユダヤ教の対立の現実をみると、理想の宗教のようにもみえる。ただし、私の知っているのはここまで。礼拝には音楽も入り、厳かにおこなわれたが、意味が分からないから退屈であった。欧米人も多く見学していたが、退屈だったのか途中でゾロゾロ帰ってしまった。私たちも、途中で帰ることにしたのである。


あたふた訪越記J


(写真は、クチの少数民族の女性とカオダ教の総本山)
12、4月7日・クチでタライモを食す。
 暑い中、実弾射撃をしたら疲れた。後は、帰り道となる。途中、休憩所がありお茶を飲むことに。座ると、この地方の少数民族の衣装を纏った女性がお茶とタライモを出してくれた。観光客へのサービスである。タライモは、味がない。つまり、味も素っ気もないのである。旨い訳がない。岩塩をつけて、やっと食べられるものだ。一片食べたら、腹が膨らんできた。随分と腹持ちする食べ物である。ベトナム戦争時代、クチでは米軍の爆撃が激しかったけれど、戦争の合間に住民はトンネルを出て米やタライモを栽培していたのである。つまり、「このイモを食べて戦ったのだ」と云うことである。これでは、私たちよりも2周りも小柄な体型も頷ける。米軍は、トンネルを発見しても中に入ることが出来なかった。結局、最後まで攻略できずに犠牲者を増やすばかりであったのだ。帰路、ゴム草履を作る作業場を通ると、作業員たちがタイヤのゴムを切って草履を作りの実演をしてみせた。作った草履は、その場で販売していたが「買え」という素振りもみせない。客商売が不得意なことが、ありありと判るのであった。サイゴンの都会人とは違うのである。途中、欧米人の観光客の一団と遭遇した。その太った体型をみて、これではトンネルに片足を入れるのがやっとだ、と今更ながら思わされた。彼らは、ワイワイガヤガヤと騒ぎながら、お土産品を買っていた。一体、どんな気持ちでこの地を訪れたのか、彼らの立場でベトナム戦争のことを考えることが出来ないでいる私は、複雑な気分になるのである。

13、4月7日・カオダイ教総本山へ。
 クチをあとに、今度はカンボジア国境に近いカオダイ教の総本山へ。30km西の方向である。ところが、西に行くにつれ暑くなるのが判るのである。総本山の門を潜って、駐車場で車を降りた地点の温度は40℃近くになっていた。カオダイ教では、日に3回の礼拝があると云う。その度に、信者が総本山に集まってきて礼拝の儀式が行われる。私たちが行ったのは、丁度お昼の礼拝時であった。近所から、トラックで乗り合い続々と信者が集まってきた。それに劣らず、観光客も続々と集まってきた。つまり、この総本山と礼拝の儀式が、観光客に開放されているのである。私たちが、礼拝の様子を本堂の2階で見ていた時、ガイド専門学校の学生が次々と上がってきた。一生懸命メモを取っている学生もいる。それほど、ここは観光のメッカとなっているのだ。ところで、カオダイ教って何だ。一言で云えば、ベトナムの新興宗教である。創立は1926年。「三教帰元」と云って、仏教と道教と儒教の統一、つまり混合した宗教である。これは、ベトナム仏教の特徴である「三教融合」とほとんど同じである。なんだ怪しい宗教だ、なんて思うのは間違いである。日本の仏教だって、国家宗教となった奈良時代にすでに神仏習合がなされ、明治初年の廃仏令による仏教の破壊・分離まで「神仏混合」の宗教だったのである。更に、仏教の中に儒教の教えが入り込んでいるのは公然の秘密なのだから。カオダイ教では更に「五枝協一」と云って、孔子の人道、姜太公の神道、キリスト教の聖道、老子の仙道、釈迦の仏道の統一、と云うのを掲げている。徹底した混合宗教と云える。特にベトナム南部各地に広がったが、多くの派に分裂し、1954年には12教派で信徒100万を擁していた。この12派が、政府側と革命側にそれぞれ別れ、私兵を持つ軍事集団となったのである。解放時の1975年には20余派200万人と号したが、勿論、軍事力の保持は許されていない。とくに、ドイモイ後の復興は著しく、次々と信徒を広げているようである。


あたふた訪越記I


(写真は、実弾射撃と罠の仕掛け)
11、4月7日・クチトンネルの中に。
 クチトンネルの招待所に着くと、周りには人民ベトナム軍の制服を着た男たちがたむろしていた。ここは、軍の施設なのである。ビデオのある一室に、コクさんに案内された。あぁ、兵隊さんが説明してくれるのだと思っていたら、なんとコクさんが地図を前に説明しはじめた。ベトナム戦争時の、クチとサイゴンの位置関係。当時の人口。模型で展示されているクチトンネルの中の様子と、そこでの住民のくらしぶり等々。それが終わると、当時のクチの様子を撮った記録映画が上映されたのだ。その説明が終わって、やっとトンネルの方へ。今度の案内は、ホーチミンサンダル(タイヤで作ったゴム草履)を履いた兵隊さん。密林の中に入って行き、木の傍に立って「トンネルの入口は何処か」と言う。「捜せ」と言うのである。周りを見渡しても、枯葉が落ちているだけである。すると、彼は足でサァーと枯葉を取り除いた。何とも小さい穴が出現したではないか。それが入り口である。「入ってみろ」と、見本のため彼は穴の中に。スルリと入って、入口 を自分で蓋を塞いでみせた。そこで、今度は我々の番である。腹を支えさせながら入ってみたが、とても肩までは入れることが出来ない。そこで、蓋を持ってポーズ。写真を撮って、この場所はお終い。次は、米軍を罠にかけて殺した仕掛けの展示場へ。棒を使って、その仕掛けをツツイテ見せてくれた。今でも実践に使える本物で、かかったら重傷を負うか死んでしまうであろう恐ろしいモノ。コクさん曰く、「武器がなかったので、この地方の狩猟用の罠を使ったのです」と説明。次のコーナーでは、米軍が落していった不発弾を解体して、爆薬を取り出す作業の様子。人形で再現していた。電気のスイッチを入れられ、突然人形が動き出したので吃驚である。ここは、お化け屋敷か。さて、いよいよトンネルの中に。若者コースと年寄りコースがあって、「どっちにするか」と言う。勿論、年寄りコースで最短コースを選んだ。懐中電灯を持った兵隊さんが先頭を行ってしまうと、あとは真っ暗。中腰で暗闇を歩くこと数分。暑いうえに、中腰前進で太腿が筋肉痛なるわァで、散々であった。これは、トンネルの中でくらすのがどんなに大変かを、体験するだけのコースなのであった。これでは、観光用に一部開放されていると云っても、アイデアがなさ過ぎると思うのは、日本人的発想であろうか。やっと外に出て歩いていると、ライフルの銃声が森の中に響いていた。行ってみると、射撃場なのであった。6ドルで5発の実弾を試射できると言う。kさんは、「滅多に出来ない貴重な体験」と嬉々として臨んだ。勿論、私も。傍で実射を見学すると、その音のうるさい事。耳あてをするのだが、あまり効果があるとは思えない。「前方のライオンの絵を狙え」と、係りの兵隊が実弾を込めてくれる。さぁ、あとは引き金を絞るだけ。ライフルは固定されているので、極めて安全な実弾射撃なのであった。おっかな吃驚引き金を引く。轟音と共に、弾は飛び出るが的には中々当たらない。やっぱり、実弾が怖くてへっぴり腰になってしまうのだった。


あたふた訪越記H


(写真は、ガイドのコクさんとクチトンネルの入口)
10、4月7日・クチトンネル。
 本日のガイドは、コクさん。日系企業に就職した経験があり、日本にも研修で訪れている、33歳の人。ツアー客は、私たち2人と20代後半の男性の3人。今どき、クチトンネルに行く日本人は少ないのであろう。クチは、ホーチミン市から北西に約70km。カンボジア国境に向かう方向にある。ベトナム戦争当時、この地域に解放戦線の拠点が置かれた。ちょうどサイゴンの後背地となり、米軍にとって目障りな存在だった。だから米軍は、戦略村を作って直接支配しようとしたり、度重なる空爆と大量の枯葉剤を投下したが、ついに攻略できなかった。そればかりか、クチに攻め入った米軍は原始的な罠(落とし穴等)にかかり死んでいった。思ってもいない、大量の犠牲者を出す羽目になったのである。なぜ、米軍は攻略できなかったのか。解放勢力が、地下に総距離250kmにも及ぶトンネルを掘ってゲリラ戦を続けたから、では説明できない。そもそも、世界最強の米軍を敵にまわして、なぜベトナムは勝利したのか、それ自体が不思議である。ベトナムには、中国・ソ連からもらった旧式の僅かな武器しか支給されていなかった。だからクチでは、狩猟用の罠を設けて武器の代わりとしたのだ。そんな武器で、米軍と対抗するしかなかったくらいなのだ。近代兵器を装備した、世界最強の米軍に勝利した理由。あと考えられることは、ベトナム人の精神・意志の力しか私には考えられなかった。でも、意志の力ってそんなに偉大か? とも思ってしまう。クチに来て、その理由の一部が見つかった。クチの人々は、昼間は稲やタロイモを作り普通に生活をしていた人々なのだ。つまり、軍隊・軍人でない人々をアメリカは敵にまわしていたのだ。そこに生活している人の全てを敵にまわしたら、住民皆殺し以外にその戦いに勝利することはできない。現に、ソンミ村ではそれをやったのだ。アメリカとは、それをやった人々なのだ。しかし、いくらなんでもベトナム人全部を殺すことはできない。だから、アメリカは負けたのである。Kさんの話では、米軍の戦車は収穫時の田んぼの中を真っ直ぐ進んだと云う。後続の戦車がその後を続けばいいのに、横隊でそれもジグザクに進んで全ての収穫物を踏み潰していったのだ。彼らには、稲も単なる雑草としか見ることができないのだ。これでは、その地域の農民すべてを敵にまわさない訳がない。こうして、ベトナム全土の住民を次から次へと敵にまわしながら、アメリカは戦ったのである。と云うことが、ベトナム戦争時のクチの住民の生活を写した記録映画を観て判ったのだ。「成程」と、思わず膝を叩いてしまったのであった。


あたふた訪越記G


(写真は、大蛇を首にとメコン川クルーズ)
9、4月6日・メコン川クルーズ。
 いよいよ、ミトーのフェリー乗り場から中型エンジンボートで中州の島へと向かう。このあたりは、大型船では支流に入れないのである。舟に乗ると、椰子の実が全員に手渡された。小玉のスイカ並みの大きさで、先端をナイフでカットし、そこにストローが差し込まれている。天然の椰子の実ジュースだ。啜ってみると、気候のせいで生暖かく少し生臭い。美味しいとは云えないが、そこは天然のジュースの味である。島に渡ると、そこには果樹園がいくつもあった。観光客を歓迎するテーブルが設けられていて、そこで獲りたてのフルーツや、そのフルーツを材料にしたお菓子が食べ放題でふるまわられた。お酒も、40度のベトナム焼酎や養命酒が出された。ひとまず一服である。そのうち、これらのお菓子やお酒の「売り物」が持ち込まれる。「買え!」と云うことなのだ。パイナップル、バナナ、パパイヤ等のフルーツお菓子を買った。独特の味がした、生姜のお菓子もお土産として買ってしまったのだ。落ち着いて店の中を見渡してみると、何やら奇妙な箱が置いてある。中に、大蛇がトグロを巻いていた。この蛇は、客の首に巻いて記念写真を撮るためのものだ。と云うことで、記念のため私とkさんが蛇を巻いて写真を撮った。まだ若い蛇だったからか、触られると嫌がっているのが判った。恐怖に顔をひきつらせながらポーズ。イヤー、冷汗ものであった。その後、島を散策。ココナッツキャンデー工場(屋根が付いているだけの小屋)で、キャンデー製作の実演を見学。再び店に入って、接待。今度は、一弦の琴でベトナム音楽の演奏。すると、今まで給仕をしていた女性が正面に立って歌を唄いだした。それが、4人程繰り返されて、最後に全員が並んで唄ってくれた。あれ! と思っていると、それが「幸せなら手をたたこ」と唄っていることが判って、爆笑。なるほど、日本人を接待してくれたのである。そして又、移動である。今度は、手漕きの舟に乗り換えてニッパヤシの森の中の細い水路をジャングルクルーズである。これは、なかなか風情があって善かった。ニッパヤシのトンネルをくぐって、奥へ奥へと進んでいくと、冒険の旅でもしているような雰囲気になる。そのまま、小舟は島の外に出て中型船に近づいて行った。これで、メコンクルーズは終わり。フェリー乗り場に戻って、車に乗り込む。ちょっと遅くなったが、これから昼食である。ガイドの案内で、今回初めてのベトナム料理を味わうことに。しかし、ベトナム料理では気をつけないといけないモノがある。それは、ベトナム人には欠かせない香草である。香草の種類を確かめないと、そのあまりの香りに辟易してしまうからだ。日本の紫蘇と同じように、我々でも食べられるモノもあるが、そうでないモノや分からないモノはそっと避けておくに限る。ツアー客で、一番年配の男性がこの香草を食べて、「ウァー!」と叫んでいるのであった。この香草さえ注意すれば、ベトナム料理は日本人にあった食事である。雷魚の揚げ物や野菜中心の食事で、満足満足なのであった。


あたふた訪越記F


(写真は、ガイドのタンさん(上)と永長寺)
8、4月6日・メコン川ツアーと永長寺。
 6日はメコン川ツアー、7日はクチトンネルとカオダイ教寺院ツアーに申し込んだ。申し込みは、宿泊したモンディアルホテル1階にあった「日本語ガイド」の「アオザイツアー」でしたのだ。メコン川までは、ホーチミン市から1時間40分。朝の8時30分に迎えが来ると云う。8時には、ロビーで待っていた。ロビーだから、色々人が出入りしている。8時20分頃に、20代後半のベトナム人がロビーに入ってきた。あ! ツアーガイドかなと思ったが、一言も発しないでキョロキョロするだけ。とうとう8時40分が過ぎた。「日本語ガイド」行って、「迎えが来ないヨ」と声をかけたら、先程の青年が動き出し私の名前を呼んだ。まったく、ベトナム人の遠慮深さには負ける。入ってきたら、「声をかけて自分の客を探せ」と言いたくなる。ことほど左様に、ベトナム人は自分から声をかけたり請求したり、と云う押し出しに欠けるようだ。もっとも、私が見たのはホテルのフロントとツアーガイドだけなのだが。この青年はタン君と云って、中国人とのハーフだと言う。迎えのバンは、2組の夫婦と母娘と私たちの8名が乗った。各ホテルを周って、拾ってきたのだ。この日も暑い。車は、市内の渋滞を抜けてどんどん南に向かう。この渋滞の怖かったこと。少しでも隙間があれば、車の前を他の車が割り込んでくるし、オートバイは縦横無尽に入り込んでくる。まともに見ていると、手に汗を握るほど緊張してしまうし、オートバイの姿に目が回ってしまう。運転手はバンバン警笛を鳴らすし、急ブレーキはかける。ニア・ミスに、車内では悲鳴があがるほどだった。それでも事故がないのだから、運転手もよほど鍛えられているのだろう。一時、車内の客同士でアジアの運転手の神風運転ぶりや、その技術の高さについて、比較の話が出た程である。そうこうしている内に、車が止まった。そこは永長寺と云う、1849年開山の由緒正しいお寺だった。タン君は、ここを見学すると言う。ベトナムの仏教は、他の東南アジアの仏教とは違う。中国経由の、大乗仏教なのである。隣のカンボジアもタイも、スリランカ経由の上座部仏教(小乗仏教)なのである。中国経由だから、経典は漢字で書かれている。ところがベトナムは、フランスの植民地支配の間に漢字を廃し、ローマ字表記に変更してしまった。100年間の植民地支配の間に、一般のベトナム人に漢字の読み書きができる人は僅かになってしまった。但し、僧侶には今でも漢字教育がお寺でなされている。現在、ベトナム人の8割は仏教徒だと云う。この永長寺の、建築様式が変わっている。中国とフランスの両方の建築様式が取り入れられているのだ。曲線的で優美な外観だが、日本人のお寺のイメージからはかけ離れている。仏像も金ピカなのである。タン君は、お寺の内部にドンドン入って行く。食堂、炊事場もお構いなしである。どうやらこの寺は、観光客に開放されているらしい。どこでも写真を撮ってOK。但し、お坊さんの個室のなかだけは駄目。あたり前である。永長寺の見学を終えて、ミトーの川の桟橋へ。これから、メコン川の中州にある島に渡ると言う。川の水は、私たちから見ると濁っているように見えるが、タン君は「今はキレイだが、雨季になると上流の泥水が流れてきて汚くなる」と言う。干満の差は、2mもあるのだ。


あたふた訪越記E

(写真は、旧大統領官邸に展示された無血入場した戦車)
7、4月5日・昼食。今日・朝8時前にホテルを出て、戦争証跡博物館を退館した時には12時をまわっていた。延々4時間以上、立ちっぱなし歩きっぱなしなのであった。戦争証跡博物館の近くの、統一会堂(旧大統領官邸)に入ろうとしたら、昼休みで入れなかった。統一会堂の庭には、南ベトナムの大統領官邸に北ベトナムの国旗を掲げて無血入場した戦車が飾られていた。この戦車の入場シーンをニュースで見た時、ベトナム戦争が本当に終わったことを実感したものだった。つまり戦車は、ベトナム解放の象徴となったのである。昼食を摂ろうと、食堂を探しながら聖マリア教会の方に歩いた。そこに、歩道に一部はみ出させてオープン喫茶風の食堂をみつけた。欧米人の男女が、何組か食事を摂っているのを見かけたので入った。メニューで、ベトナム料理を探したがなかった。ここは、本当に欧米人用の喫茶店なのであった。料金も、日本と変わらない値段であった。ここで、気づいた事がある。1人が1台のオートバイを乗っているのではないか、と思わせる膨大な量のオートバイの管理の事である。各店にオートバイを収容するスペースがあり(ない場合は、歩道で)皆が料金を払って駐輪させていたのである。店の入り口でオートバイを降りると、係員が受け取り奥の方に整理する。帰りに係員に料金を払うと、奥から出してくれると云うシステムであった。ちなみに、ヘルメットがあると「ヘルメット分」の管理費も必要なのである。但し、ホーチミン市内ではヘルメット着用は不要との事。渋滞が激しくスピードが出せない事が、不要の理由なのであった。だから、ほぼ全員がヘルメットなしである。kさんに言わせると、「こんなに暑くては、ヘルメットなど風土に合わず不合理」「ベトナム戦争の時だって、ヘルメットの代わりに竹で編んだ帽子を被ってベトコンは戦っていた」と云うことになる。それはさておき、食事を終わった欧米人が、引き出されたオートバイに乗った。いかにも、「ベトナムで仕事をしているんだぞ」と云う風情である。後ろに、職場の同僚らしきベトナム女性を乗せてである。その姿は、まったく現地のベトナム人と同じであった。ベトナムには、鉄道(戦前のサイゴンーハノイ間の鉄道が現在でも使われているものだけ)や地下鉄がない。公共バスは少しあるが、目的地に行くのに時間もかかり不便である。だから、何処にいくにもオートバイなのである。ホーチミン市では現在、地下鉄・鉄道・道路の建設計画が目白押しにある。なんとか、オートバイによる渋滞を解消しよう、と云うことらしい。現在着手されているのは、道路建設である。やがてベトナムは、オートバイから自動車による渋滞にとって代えられることであろう。中国が、そうであったようにである。さて、昼食を終えて統一会堂に行った。もう開館時間なのに、入場できない。時間になっても、係員が仕事に着いていないのである。どうやら「時間どうり」にセセコマシクやる習慣が身についていないようである。考えてみたら、かってのベトナムの昼休みは長く、スペインやイタリアのシエスタのように3時間ほどあったことを思い出した。暑い炎天下で働いていたら、身が保たないのだ。もしかしたらこの暑い昼間、何時間も歩いて市内観光をしているのは日本人だけなのかもしれない。そこで、近くの聖マリア教会をまわって、ホテルに帰って休むことにしたのであった。疲れた。


あたふた訪越記D


(写真は、戦争証跡博物館とホーチミンシャツ)
6、4月5日・戦争証跡博物館。
 歴史博物館の次に向かったのは、戦争証跡博物館。気温34℃で、水分補給が必要となった。水は、ペットボトルで売っている。外国人だけでなく、現地の人も生水は飲まないでペットボトルを買っている。屋台でも売っていたが、「屋台モノはダメ」と注意されていたので、小さな店に入った。水の値段を聞くと、「5.000ドン」と言う。1ドル札で支払ったら7.000ドンのお釣だった。電算機でもって、「1ドルは15.000ドン」とゼスチャーで示すと、態度は柔らかいのだが「ノー、ノー」と云う素振りを見せる。そのうえ、電算機を持って何だか分からない乗率をかけて「12.000」の数字を出してくる。水が5.000ドンの相場なのかよく分からないため、諦めて7.000ドンのお釣を貰って引き上げてしまった。3.000ドンは、日本円で21円なのだが「ボラれた」と思ってなんだか寂しい。見た目に、優しそうな女性だったのに。でも、強いことは言えない。なにしろ、私たちはベトナムにお世話になっているのだから。水を飲みのみ、戦争証跡博物館を目指す。途中、間違えて学校に入ってしまった。そこで、場所を聞いてまた歩き出す。漸く到着すると、入口には欧米人の集団がたむろしていた。観光客である。入館料は1人1ドル。1ドル札を出すと、「2ドルだ」と言う。オカシイナーと思いながら2ドルを出すと、チケットを2枚渡される。つまり、「2人だから2ドルだ」と言っていた訳である。入ると、庭のアチコチに戦車や爆撃機等が展示されていた。要するに、アメリカ軍が残していったモノが展示されていたのである。それをバックに、アメリカの若者が笑顔で記念写真を撮っていた。彼らの父親の敗北の記念品だと云うのに、なんだか複雑な情景であった。建物に入ると、その殆どがベトナム戦争時に撮られた写真の展示であった。ベトナム人が、どんな酷い目にあわされたか、と云う生々しい記録である。そのなかに、サイゴンの市場で公開処刑されたグエン・バン・チョイの写真もあった。東京写真美術館のベトナム写真展(発掘された不滅の記録)で観た写真とは違う図柄で、より生々しかった。グエン・バン・チャイは、南ベトナムの反政府活動家だった。夜間の高校生で、当時20歳。妻もいた。見せしめで処刑される時、目隠しを拒否して叫んだ。「僕のことを忘れないでくれ。アメリカ帝国主義打倒。ホーチミン万歳。ベトナム万歳」と。それが、彼の最後の言葉となった。1964年のことである。ホーチミン市の地図を見ると、空港から市内に入る処の道路に「グエン・バン・チョイ通り」と云うのがある。もしかして、この通りにある市場で公開処刑されたのかもしれない。1964年当時、高校生だった私もこの写真を観ている。もしかしたら、8ミリ映画で観たのかもしれない。当時、ベトナム反戦の記録映画が上演されていて、よく観ていたからだ。目隠しをされていた場面、それを取った場面が私の記憶のなかにあるのだ。写真は、3つの建物でそれぞれ展示されていた。一番大きな建物には、写真と並んで米軍の銃器も展示されていた。勿論kさんは、その全部をデジカメで撮影していた。「これは、何々。これは、何々」と、私に説明つきで。1つの建物で、石川文洋と中村悟郎の「ベトナム・戦争と平和」写真展が開かれていた。日本人の観光客が多いせいだけではなく、石川氏や中村氏が有名なジャーナリストで写真家であることはよく知られていることであった。ここの売店で、ホーチミンとベトナム国旗がプリントされたシャツを3ドルで買った。kさんは、水を5.000ドンで買った。これで、水の相場が5.000ドンであることが判った。やっぱり最初に買った時はボラれたのであった。


あたふた訪越記C

(写真は、中央郵便局のホーチミンの肖像画)
5、4月5日・ホーチミン市内観光。
 私たちが泊まったのは、市内中心街・ドンコイ通りにある「モンディアルホテル」と云う。ホテルにはエレベーターがあるが、これが古式ゆかしい。戦争前(勿論、ベトナム戦争の)のモノと思われる。内部が全部見えるのだが、その機械仕掛けは見ていて楽しい。ところでこのエレベーター、私たちが4階だと思って昇った405号室は実は5階だったのだ。1階は「0」の表示であった。ちなみに、国営デパートの1階には「G」の表示がされていた。ここの1階、つまりフロントのある階の奥には「日本語ガイド」のコーナーがあり、ここで周辺のホテルの日本人客を対象にしたツアー等が纏められていた。そのツアーを、「アオザイツアー」と云う。ホーチミンの朝は、少しづつ少しづつオートバイの音が重なりあって聞こえてくる朝であった。朝8時、市内の名所巡りのためホテルを出発。勿論、歩いて。 地図を見ながら、自力でのツアーである。ホテルを出ると、オートバイの波また波である。通勤ラッシュなのである。最初に入ったのは、中央郵便局。ホテルから10分ほど。重層なフランス調の建物で、中は薄暗い。正面奥の2階部分に、ホーチミンの大きな肖像画が掲げられていた。ここでKさんが、ハガキと切手を買う。初めての買い物の試みだ。ウロウロしながら、身振り手振りと英語でハガキ売り場と切手売り場を探し、東京や千葉の友人に5通ほどの便りを書き提出。ドルの支払いでスムーズに。もっとも、お釣りはドンだったが。次に向かったのが、「ホーチミン作戦博物館」。それは、建物の前に米軍の攻撃機が展示されていたのですぐ判った。その攻撃機を見たとたん、軍事オタクのKさんが傍目にもイソイソしはじめた。さすがは、オタクの名に恥じないKさんであった。早々に入場しようと受付に。朝が早いせいか、他の客は1人もいなかった。入場料は1万ドンである。1ドル札を出すと、受付嬢がニコニコしながら首を横にフル。「ドルではダメ」と、言っているのであった。あれ!ドルが通用するのじゃなかったのか。そんなことを言われても、こちらにはドンの持ち合わせがない。しかし、首を振るばかり。なんて商売っ気がないのだろう。言葉も通じないし、諦めて次の処に。建物前の展示品で満足することにしたのだ。次に向かったのが、「歴史博物館」。ホーチミン博物館の目の前なのに、入り口が分からなくて周辺をぐるっと回ってしまった。この時、すでに大気温は34℃。汗タラタラである。日本を発つ時には、寒くて上着を着ていたのに、1日で20℃近い温度差である。歴史博物館は、ベトナムの古代から現在までの様々な遺物が展示されている。入場料は15.000ドン。1ドル札を払ったら、スンナリと通してくれた。アレアレである。なかに、中国の宋や元・明と戦い勝利している戦闘画がいくつも飾られていたが、「北属期」と云ってベトナムは中国に紀元前から1000年間も従属させられてきたのである。それでも、幾度も独立の戦いを起こし短期間の勝利を得るが、やはり大国・中国に破れ隷属する歴史を繰り返してきた。近代に入り、フランスがインドシナを植民地化するため入り込んでくる。その当時のベトナムの王朝は、このフランスの軍事力を借りて南部のクメール人を追い出し、今日の南北ベトナムを統一したのである。ところがある日突然に、フランス軍はダナンに攻撃を仕掛け(1856)武力でもってベトナムの植民地化に乗り出した。この時、宗主国である中国も黙ってはいなかった。1884年、中国の清との清仏戦争が勃発。この戦争の結果、清国の宗主権は完全に排除されることとなったのである。と云うことで、この歴史博物館ではそんな歴史が学べるのであるが、日本語の説明があるわけではないので、よく分からない。ところが、受付で貰ったパンフレットは日本語のものだったのだ。最初から、こちらが日本人と判っていて配ってくれていたのである。それに、市内観光ツアーで幾組もの日本人グループがガイドを伴って入館していた。そのガイドの説明を、私たちがちゃっかり聞いて回ったのである。こちらは無料、むこうは有料と云う訳である。


あたふた訪越記B

(写真は、ホーチミン市で道路に溢れるオートバイの波)
4、4月4日・ベトナム到着。
 前回は機内食の写真を載せたが、この機内食が旨かった。魚や中国風の具にもち米、パンも少々。それに、飲み物はビールその他。最初、ビールなど酒類はないと思っていたのに、前の客がビールを飲んでいるのを見てあわてて「ビール」と注文したのである。みっともない。さて、現地時間23:00にホーチミン市のタン・ソン・ニャット空港に到着。「到着時に、現地係員が出迎える」となっていたので、ゲートを通ってウロウロした。ゲート前は、夜中だというのに夥しい出迎えの人で溢れていた。すると、ひらがなで4人の名前を書いたボードを持っている人物に気付いた。そこに、私の名前が書いてあったからだ。ボードを指して、「これ私です」と名乗る。すると、すぐに送迎車に案内してくれた。私たち2人と、あと2人が来るとのこと。私たちは手荷物なしですぐ出てきたが、あとの2人は手荷物場所で自分の荷物が出てくるのにひっかかっているのである。ゴロゴロと、手荷物を曳いた男女2人づれが現れた。この2人、ちょっと不釣合いな男女である。男は60近く、女は20代後半。一口も口を利かず、くすんだ感じである。これで、全員揃ったのでホテルに出発。車の中で、ベトナム滞在中の注意事項が言われる。@掏り、ひったくりに注意。オートバイによるひったくりが多く、バックなどの持ち方に注意。掏りは、刃物でバックなどを開けるとの事。とくに、日本人は狙われやすいので注意。A物乞いにお金をやらない事。シクロ(自転車タクシー)、バイクタクシー、タクシーはトラブルが多いので乗らない事。B露天の屋台のものは食べない事。生水、生野菜、鳥は飲まない食べない事。C現地のドンとの換算の目安は、1ドルは15.000ドン。100円は13.000ドンであること。Dパスポートと帰りの航空券、貴重品、余分な現金はホテルのフロントに預ける事。とくに、パスポートと航空券は絶対に預ける事。と云うものだった。そして最後に、「なにかあったらここに連絡を」とチラシを手渡される。そこには、24時間対応する日本人の名前と電話番号が数人分書かれていた。Kさんはチラシを見て、「ハハーン、ベトナム人ガイドの背後に日本人のシンジケートがある」と言う。つまり、ベトナム在住の日本人の集団が日本人の観光客の案内(ツアーを組んだり、ガイドを付けたり)を組織的に牛耳っている、と云うのだ。そうでなければ、日本人が24時間対応するシステムなど作れない、という事になる。しかし、この注意事項には驚かされる。ベトナムがあたかも、物騒な処のような印象を覚えてしまうからだ。ガイドブックでは、ベトナムは東南アジアでももっとも治安が良い国だと書かれていたのに、である。やがて、ホテルに到着。4人がこのホテルの客になるのかと思ったら、私たちだけだった。同じツアーの客でも、ホテルは別々であるらしい。フロントで受付をし、鍵を預かる。部屋は405号室。エレベーターで4階に。部屋に入って、冷蔵庫からビールを出し無事到着を祝して乾杯。もう夜中である。シャワーを浴びて、寝ることにした。


あたふた訪越記A

3、4月4日・ベトナムに出発。
 Kさんと私の格安ツアーは、ANAの「ビックホリデーツアー」と云って、往復の飛行機代とホテルの3泊(朝食付)代で68.640円。集合時間の16:35に成田空港第2旅客ターミナル3階AアイランドのANA団体ビックホリデーカウンターに行ったが、私たち以外のツアー客など1人もいなかった。受付を済ませたが、出発時間の18:35まで2時間もある。どうして、こんなに早く集合させるのか意味が分からない。そこで、早々に両替所に行くことにした。両替所に行くと、制服の女性がつかさず寄ってきて「何に替えますか」と尋ねる。「ベトナムのドンに」と言うと、首を傾げて、「ドンはありません」と言う。あれ! おかしいな、Fさんは「ここが便利」と言っていたのに。よく見ると、中国の元なども両替していないことが分かった。もっとも、どこの通貨も両替できるとしたら、何百種類もの貨幣を用意しなければならないこととなる。中国の元さえ両替できないのだから、ベトナムのドンはなおダメと云う事になる。そう云えば、旅行保険に加入する時、行先国の項目に中国はあったがベトナムはなく「その他」欄にチェックしたのを思い出した。保険会社でも「ベトナム行きの取引が少ないのか」、と思ったものである。「地球の歩き方ーベトナム」で、ドルでも通用すると書かれていたことを思いだし、ドルに交換することにした。3日間のツアー代と昼・夜の食事代、それにお土産代として3万円をドルに両替することにした。すると、透かさず1万円分の各種ドル札(10ドル×6、5ドル×2、1ドル×12)が入ったビニール袋が3個手渡された。なんと要領のいいことか、さすがは日本である。手数料を引かれた端数は、その日の為替変動に合わせて各袋に80円の日本円で返却されていた。後はすることがない。荷物検査も出国手続きも早々に済ませて、7番ゲート入口近くの椅子に坐って待機である。荷物検査も、別料金を取られないようリック1つである。その荷物も、3日分の下着とシャツ、タオル、歯磨き用品、半ズボン、電気ヒゲソリ器、整髪料とブラシ、それに「地球の歩き方」1冊でリック一杯になってしまった。同じリック1つのKさん、私のリックよりひと回り小さいのに余裕があった。この荷物を減らすのが海外旅行の課題なのだが、今回の旅で下着とシャツは2日分あればよいこと(毎日ホテルで洗えば、翌日には乾いている)、歯磨き用品や整髪料は不要(ホテルに用意されている)、タオルも大はいらないことが分かった。これでも、中国旅行より2回りも小さなリックにしたのである。さて、18:35のNH931便に乗り込む。それまで晩飯も摂らない。なぜなら、機内食が出るからである。機内に入ってまずしたことは、気圧用の耳栓を装着したことである。これは、20数年前の沖縄旅行の時に気圧のために耳が痛くなって堪らない経験をしたことから、用心のためにしている。前回の中国行きの時にも装着したが、別段の異常はなかった。ところが、今回は違った。離陸の時と着陸の時、とくに着陸時に耳栓をしていても痛くなったのである。飛行機が動き出した。ところが、いつまで経っても飛び立たない。30分以上もふらつき、19時を過ぎてやっと飛び立った。ベトナムまで4305q、飛行時間6時間で現地に23:00(現地時間)に到着。時差は−2時間である。

あたふた訪越記@
1、はじめに
 4月4日から8日までの、ベトナム南部のホーチミン市を中心に3泊5日の観光旅行から、無事に帰ってきた。私にとってベトナムは、2度目(初回は、04年の中国・内モンゴル)の海外旅行となる。ベトナムといえば、私たち団塊世代にとってはその青春期がベトナム反戦の政治の時代だったのであるから、ひときわ思いいれのある国である。私が、東京・港区のJR三田駅の線路脇にあったY橋梁会社に入社したのが1964年。16歳で、定時制高校2年生であった。高校も、同じ港区・芝愛宕町にあった港工業高校。入学も入社も、どちらも新橋の実家から近いから選んだというズボラな少年であった。そのズボラな少年が入社し、職場の1年先輩で同い年のKと組んで仕事をすることとなった。このKが、仕事中でも昼食中でもベトナム戦争の話しをするのである。1964年は、トンキン湾事件が発生(米駆遂艦が、北ベトナムの哨戒艇に攻撃されたというデッチアゲ事件)し、大掛かりな北爆が開始された年である。アメリカは、北ベトナムを「数ヶ月で原始時代に戻してやる」と広言し、第2次世界大戦で使用したのと同量の爆薬を使って北ベトナムを砲撃した。ナパームや枯葉剤と、ありとあらゆる殺傷兵器を使ったのだ。このY橋梁会社の川向こうに、沖電気という会社があった。ある日Kは、この沖電気で作られている発信器がベトナム戦争に使われている、と言い出した。ベトナムにはジャングルが多く、ジャングルにはベトコン(南ベトナム解放民族戦線の兵士)が活躍していた。そのジャングルにレーダー発信器をばら撒き、動くものを上空の米軍機がキャッチして爆撃するものである。つまり、「日本はベトナム戦争に直接に加担している」と、Kはいきどおっているのであった。これには参った。仕事に関係ないことを、いちいち煩いと思ったが、言っていることには真実味があり、それに無関心でいることが出来なくなっていたのである。やがて、夜の学校をサボってベトナム反戦のデモに頻繁に行くようになった。そこで、高校の剣道部の部長(部活で剣道部に入っていた)が労働組合旗をもって参加しているのにバッタリ会ったりしたりもした。普段、政治の話しなどすることもなかった学校の先輩や同級生も、やはり私と同じ「ベトナム反戦」という政治の時代を生きていたのであった。

2、3月27日・参加者の打ち合わせ
 今回のベトナム旅行の参加者は、計画を立てた機関紙協会のKさん、組合専従のFさんと私の3人。Fさんは、私と同年齢。Fさんは少し前に、息子と東ドイツに一ヶ月ほど旅行して帰ってきたばかり。インターネットで行く先々のホテルの予約を取り、英語だけで無事に格安旅行を成し遂げてきた人だ。打ち合わせをしてみると、Fさんがホーチミン市で泊まることになっているホテルの事や周辺の事をインターネットで調べてくれていた。さらに、市内の地図もコピーして配ってくれる等、旅行への気配りをしてくれていた。現地の貨幣はドンで1万ドンが70円となるが、これは成田空港で事前に両替し、残ったら同じ場所で円に戻せば便利と、これまでの経験を話してくれた。同時に、旅行保険への加入についても、インターネットで加入する方法も教えてもらった。これで、旅行前の準備はOK。少しの不安も、経験者のFさんがいれば大丈夫と安心したのだった。4月に入った途端、Kさんから連絡があった。「Fさんが、組合の争議が起こってキャンセル」との事。ウーム! トラベルはトラブルと言うが、頼りのFさんの不参加で不安が頭をよぎる。しかし、しょうがないのである。Kさんと私のやじきた道中で乗り切るほかないのだ。もっとも、私は役にたたないけれど。 


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