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MOONLIGHT DIARY
2008/09
▼いよいよ「介護日誌」のスタートです。当面MINさんの執筆でスタートしますのでご期待下さい。この枠が定員一杯になりましたら、シリーズはスターダスト、次はミッドナイト、トワイライトとなります。

08/04/07
MN
○母の退院、そして連載終了。
 土曜日は、母の退院の日だ。N子が、実家の東○町に向かった。日曜日に、N子は1人で帰ってきた。退院した母は、実家で面倒をみることになった、という。ディー・サービスにも1日おきに行き、お風呂に入れてもらったり食事をしたりすることが、ケアー・マネージャーと相談して決まったという。なによりも、母が実家にいたいというのだ。
 ということで、我が家での介護生活は突然に終わった。息子は、4月からは転入した大学校の寮に入り、引越しをした。4人家族が夫婦2人になってしまった。だから、この介護日誌も突然ですが終わりです。1年間お読み下さって、皆さんありがとうございました。それでは、またの機会に。


08/03/26
MIN
○入院した母。
 月1回の定期健診に、実家の東○町営病院に出かけた母は38度の熱があった。半日がかりの検査の結果、膀胱に菌が入って炎症しているのが原因と分かった。薬を貰った母は、お彼岸を実家で過ごすこととなった。1週間ぶりに我が家に帰ってきた母は、車から自力で降りられないほど衰弱していた。孫(21歳の我が家の息子)に抱えられ、ベットで休むこととなった。
 落ち着いた母は、お風呂に入りたいという。実家では、自分の思うようにならずイライラしていたようだ。それに、風呂も満足に入らなかったようである。やっとのことでお風呂に入れたはいいが、体力を消耗したせいか下痢と嘔吐をくりかえはじめた。N子がつきっきりでいたが、朝方も嘔吐を繰り返していた。
 そこで急遽、東○町営病院に連れて行く手配をとった。それからずっと、足から点滴をしている。妹のT子からの電話では、すごく元気になったという。しかし、医者からは「延命処置」についての是非を聞かれているのだ。入院は2週間ほど、とのことであった。体力が確実に低下していっているのだ。


08/03/11
MIN
 チュニジアに旅行に行ってきた。8日ぶりに帰宅すると、母が出迎えてくれた。「アメリカに行ったのか」「疲れたでしょう」と。「アメリカではなくアフリカです」と返事をしたが、アメリカもアフリカもたいした違いはない。
 夜、N子が帰宅して開口一番、「大変だったのよ」という。母が40度の熱を出し、寝込んだのだ。脱水症状である。チュニジアのホテルまで電話しようかと思った、という。近くの病院に行こうと手配していたら、「東○町営病院でなければ嫌だ」と母はいう。自動車で東○町に行く支度をしていたら、母は「近くでもいい」と突然いいだした。
 そこで、天台の中○病院に行って、半日がかりで点滴をしてもらった。東○町営病院での診療内容書(病院からもらっていた)を手渡して処方してもらったのだ。ところが、その点滴のあとが青タンとなり、腕がパンパンに腫れ上がってしまった。自宅に帰っても熱が下がらない。という訳で、大騒動になっていたのである。
 私の帰国する1日前まで、そんな騒動でN子は毎日昼休みに1度自宅に戻り、母の面倒をみていたのだ。ところが、私が戻ったときには、母はケロッとして元に戻っていたのである。肝心なときには私はいないと、こういう訳である。


08/02/17
MIN
◎母がいない間に。
 土曜日は、実家のある東○町営病院への母の通院日で、T子が迎えにきた。それまで母は、持っていくモノの点検を何度もN子にさせ、「あれはあるか」「これはあるか」と繰り返し叫んでいた。N子は、「全部用意してあるから、何度も言わないの」とツムジを曲げていた。母は、T子の来るのが遅いのでヒステリーを起こしていたのである。T子が来たので、N子は漸く出勤した。興奮した母を置いて行けずに、出掛けるのを待っていたのである。
 午後、随分遅れてN子が帰宅した。いつも、母のことを気にかけて真っ直ぐ帰っていたN子は、解放された思い出電化製品の量販店をゆっくり眺めてから帰宅したのである。夕方、N子に「千○駅まで飲みに行こう」と誘われた。母がいない解放感を充分に味わおうという訳である。勿論、喜んでお供したのである。明日は、N子が母を迎えに実家まで行くのである。N子にとって、つかの間の自由な時間なのであった。


08/02/11
MIN
○体力をつけた母。
 土日の泊りがけで、N子の妹のT子が家に来た。母の介護に来たのかと思ったら、幕張メッセ近くで介護師の試験があって来たのだ。土曜日は、夜遅くまで勉強していた。当日は、N子に会場まで送ってもらっていた。前にも同じことがあったが、その時は39度の熱をだしてフラフラしながら試験に臨んでいた。当然、試験には受からなかった。夜遅く、T子がルンルンで家に帰ってきた。思いがけないほど、試験がよく出来たようである。生まれたばかりの、孫娘の着物まで買い込んできていた。
 ところで母である。土日には必ず大型スーパー巡りを催促する。今では、4時間も出歩いても吐いたりしなくなった。少しずつではあるが体力を付けてきたのだろう。頭のほうも快調で、立春を過ぎたとたんに「陽が伸びたね」といいだした。2〜3日経って、なるほど陽が伸びたことが私にも分かった。朝には、出勤前のN子に「今○○時だぞ」と、いつもギリギリに学校に出かけていた子供時代のN子に言うように声をかけているのであった。


08/01/15
MIN
○婿を心配する母。
 正月の2日に我が家に帰ってきた母は、ホッとして休んでいた。その後も、土日になると大スーパー巡りをN子にせがんでいた。スーパー巡りで、疲れて吐いたことなどなんのその、なのであった。顔色が、熱を出しているような赤みかかっていたが、熱が出ているのではなかった。これまでの土色の感じから抜け出し顔に血が巡ってきているのである。
 先日、婿(つまり私)が38.8度の熱を出した。N子に車を出してもらい、病院まで行った。診断結果は、A型のインフルエンザだった。タミフルという、飲むと異常行動をおこす副作用で有名になった薬をもらった。これが劇的に効くのである。飲んだとたん、36度まで下がってしまったのであった。
 しかし、一日中布団の中に寝込んでいたのである。それを見て、母はしきりに心配するのである。N子曰く、母が安心して家にいられるのは婿が優しいから、と思っているのだと。その婿の一大事か、と心配しているのである。一所懸命面倒を見ているN子は評価せず、知らん顔しとぃる婿が評価される、という訳である。


08/01/01
あけましておめでとうございます。
MIN
○母は、正月は実家に
 暮れの30日に、母とN子が大型スーパー巡りに行った。3時間以上たって帰ってきた母は、途中で吐いて具合が悪かった。いくら調子が良くなったといえ、長時間の外出は身体にこたえるのだ。
 そんな母も、正月は実家暮らしである。と云っても、実家を継いだ弟夫婦は、正月から子どもを連れて嫁の実家(銚○市)に行ってしまうのだが。それでも、正月に実家に訪れる知り合いがいるから、母は会いたいのである。その間、母の面倒はN子の妹のT子が看るのである。


07/12/19
MIN
○母の最高血圧が75に。
 母が、月に1度の検診に東○町営病院に行ってきた。母が我が家に来た当初、最高血
圧が60だった。とんでもない低血圧である。病院の若い医師が診断した時、母の脈拍が
測定できず、「脈がない」と大騒ぎしたことがある。
 血圧60だと、手足の先まで血が巡らないため常時冷えている。頭にも血が巡らないた
めフラフラし、周りがよく見えないのが普通だ。顔色も、血行不良で黒くなっていた。
最悪、低血圧による脳梗塞で倒れてもおかしくなかったのだ。
 我が家に来て半年、今度の検診で最高血圧75まで改善した。院長に、「血色が良くな
ってきた」と誉められ、母は喜んでいたのであった。


07/12/13
MIN

○母が来て荷物が一杯に。
 5月に母が来た時は、身一つだった。しかしその後、実家に帰るたびに荷物が増えてきた。小さな箪笥も買ったしと、部屋の中が一杯になってきた。そこで、小さな庭に倉庫を造ることにした(写真)。ここに、外に出してもいいものを収納しよううというのだ。今、その作業をしているところである。出費は、約10万。横が一間、幅は一間弱である。これで、手入れもしない庭がスッキリした。もともと、倉庫は建てる予定だったのが、のびのびになっていたのだ。


07/11/24
MIN
○メンタムを買い込む母。
 母のベットの脇から、メンタムの缶が3つも見つかった。冬になり、空気が乾燥しているせいか、母は胸が痛いと云う。そこでメンタムを買うのだが、買ったそばから忘れてしまい、買い物に行くたびに買ってきてしまうのだ。
 そこで、加湿器を買うことにした。今の加湿器は、超音波で水を霧状にして噴霧するものもある。それに空気清浄器もついて、フィルターの清掃も無用だと云うのだ。超音波は、スケールが溜まることもない。と云う情報を、買い物に出掛けるN子に伝えたが、N子が買ってきたのは「気化式加湿器」と云うものだった。
 気化式とは、スポンジのフィルターに風をあてて気化させる方式のもの。特徴は安全であること、空気清浄効果があること。弱点は、加湿能力が弱いこと。そのかわり、つけっぱなしにしておいても加湿のしすぎがない。但し、結露がおきないと云うことではない。
 ところで母は、そんな加湿器にはまったく興味を示さないのでした。


07/11/13
MIN
○母の面倒を見るT子。
 N子が、幼友達の同級生と2泊3日の旅行に出かけた。妹のT子が、母を3日間面倒をみるため引き取りに来た。元々我が家に母が来る前は、T子の家でしばらく母を預かっていたのだ。T子は、東○町の隣の市に住んでいる。実家からは、自動車で15分程。T子の長男は、今年の初めに結婚して家を出た。長女も、来年に結婚する予定で家を出ている。夫は、13年前に亡くなっている。
 T子は、市の委託で高齢者介護をする事業所で働いている。それが、今年に入って管理職となって定時に家に帰れなくなった。母を、夜遅くまで1人で置いておかざるをえなくなったので、N子が母を引き取ることにしたのだ。
 T子は事業所で働きながら、介護士の免許を取った。それが部下を持つようになり、使えない男性職員に頭を抱えるようになった。もともと、外に働きに出るようになったのは夫が亡くなってからである。考えてみれば、大変な努力をしてきたのだ。
 そのT子に、母は我儘一杯な要求をすると云う。娘には我儘が言えるもである。3日目に、母を連れ帰ってきた。田舎から、大根や白菜を持ってきた。この日はN子が帰って来るのだが、それは夜遅くだった。T子は仮眠をとって、夜中に帰っていったのであった。


07/10/30
MIN
 母が、○庄町でケア・マネージャとの面談を受けてきた。1年前と比べたら、格段によくなっている。そればかりか、「具合が悪い処があるか」「寒いか」「暑いか」と聞けば、言下に「具合いはいい」「寒くない」「暑くない」と否定する人である。ケア・マネージャに対しても、そのように答えるに決まっている。本当は、「ここが痛い」「あそこが具合が悪い」とケア・マネージャには言ったほうがいいのだが、そんなことは絶対に言わない人なのである。1年前は、デー・ケアーに行くように言われたが、ずっと拒否してきた。説得されて、やっと月に1度だけ通うようになった。今は○葉市にいるから、デー・ケアーにも行っていない。
 そんな母の長男(○庄町で婿に出た)の長女で○葉市に住んでいるY子が、「彼氏に会ってくれ」というのでN子が会ってきた。Y子より1つ年下で、牛乳店の跡取り(末っ子の長男)である。7人いる孫の内、いま男2人が結婚している。今年から来年にかけて、女2人が結婚する予定となったのだ。


07/10/20
MIN
○母がデパートが大好きな理由。 車椅子でソゴウや三越に行くと、必ず係員がやって来て助けてくれる。エレベーターに乗れば、場所を確保してくれるし、行く先々にトランシーバーで連絡がいっていて係員が待機している。地下の食品売場に行けば、楊子に試食品をつけて食べさせてくれるし、食べた後にはティッシュを手を拭いてくれと渡してくれる。
 母は、自分が大事にされることが大好きなのだ。上機嫌な母は、ベニーカーに乗っている赤ん坊を見ると「可愛いこと」と声をかける。目線がちょうど同じなのだ。お母さんは、子どもが誉められるから、微笑んで「ありがとう」と応える。外で、他人に話しかけることなどなかった母だったから、N子はびっくりである。 今日も、N子が休みとなると、「行こう」と催促するのであった。


07/10/11
MIN
○都市生活を満喫する母。
 母しか居ない家に帰って、これまでと違うことがあるのに気づいた。天井灯やテレビが入切されているのだ。これまで母は、2階にいる私に用があると大きな声で呼んだ。
「テレビは観ないから消してくれ」「明るいから照明を消して」と。その都度、呼ばれていたのだ。これまでは、テレビのリモコンの使い方を教えても、まるで関心を示さなかった。ところが、その母がリモコンを使い、壁のスイッチを操作しているではないか。
 母は土日になると、N子を催促してデパートや大型スーパーに出かける。家に来た当初は、「気晴らしに」と無理やり誘うN子に嫌がってみせていたのが、今では大喜びで出かけて行くのだ。とくに、大きくて色々と見て周れる処が好きなようである。その意味では、田舎の○庄町ではあまり経験できないことを、都市部に来て満喫しているのである。


07/10/01
MIN
○「小遣いを受け取れ」と叫ぶ母。
 短期大学校に行っている息子が、系列の大学校への編入(08年4月から)試験に合格した。それを聞きつけた母が、息子に小遣いを渡そうとしている様子が耳に聞こえた。
 母は家に来てから、ことあるごとに息子に小遣いを渡している。息子も、貰いすぎだと思っているみたいだ。そこで、「要らない」「受け取れ」と云う口喧嘩を始めたのだ。とうとう息子は、受け取らずに家を出ていった。
 一生を農婦として過ごした母の収入は、年金だけである。農婦の年金額は、それは少ない。それを、パッパと渡そうとするのだ。とても気軽に受け取れるものではない。しかし母は、それを拒否されるとヒステリーを起こすのだ。そこで私は、「入学できた時に渡せばいいじゃないか」と宥めたのであった。


07/09/18
MIN
○実家まで往復した母。
 敬老の日に、N子は母を連れて実家に行ってきた。銚子の手前の○庄町まで、車で2時間かかる。少し前だと、母は1時間もすると疲れをみせたが、今は何ともない。それで、往復4時間かけて我が家に平気で帰ってきたのだ。○庄町では、母は幼馴染に会ってきた。1年前に比べて、随分元気になったと喜ばれ手土産までもらってきた。そんなこともあって、母はルンルンだったのだ。N子は、実家から新米を貰ってきた。それを小分けして、両隣におすそ分けした。我が家でも早速食べたが、新米の水気を含んだ味は格別であった。夜遅くなって、母が吐いた。食べるものは少量なのに、時々吐くのだ。やはり、疲れたのだろう。


07/09/12
MIN
○皮膚科に診てもらった母。
 家族で回転寿司に行った。母の食べられるものは、干瓢巻きと穴子寿司だけであった。ところが家に帰ったら、母の全身にジンマシンができていた。母は、痒くて爪で掻くのである。N子は、穴子が原因だと言う。母の身体には、他にも様々なかぶれモノがあった。3日経っても治らないので、千葉駅の近くの○光皮膚科に行った。先生は、「穴子が原因ではない」「又、出ます」と云うことで薬をたくさん貰ってきた。この医院には、私が20代の初めに通いはじめてからの付き合いである。名医であると、信じている処なのだ。母も、先生が気に入ったらしく。家に帰ったら、シゴクご機嫌なのであった。


07/09/02
MIN
○「世界陸上」を観る母。
 テレビはいつも「水戸黄門」しか観ない母が、「世界陸上」を観ていた。N子が「陸上が好きなの」と聞くと、「そうだ」と言う。子ども時代は、かけっこが得意で、学校のリレーの選手にいつも選ばれていたと云う。
 N子は、母の子ども時代の話しを聞くのは初めてだと云う。実家にいた時の母は、忙しく働いていて、子ども達と話しをすることがなかったのだ。母を引き取って始めて、N子は母とじっくり話しをする機会(とき)を得たのだ。だから最近、母が夫(N子の父)の悪口を平気で喋るようになったので、N子はビックリしているのであった。


07/08/23
MIN
○立ち直ってきた母。
 熱中症となって戻った母は、家に帰っても食事の後に吐いたりと調子が悪かった。1週間経って、漸くお喋りも盛んになって立ち直ってきた。しかしまだ、家に来た当初のように俯いた姿でいることが多い。
 暑い最中、クーラーが入れっぱなしだった。母の足を触ってみると、冷たかった。年寄りには、冷えが要注意だ。夏の冷房で冷えが起こる。この冷えが、熱中症の引き金にもなるから始末におえない。
 そこで、時々母に触って冷えのあるなしを確かめることにした。それに、クーラーはなるべくつけないようにしたのだった。


07/08/18
MIN
○大丈夫だと言い募る母。
 お盆の為、東○町に帰った母。自分では動けないのに、先祖の霊を送迎する行事に参加するのだと張り切っていたのだ。ところが、帰って1日目でダウン。N子の妹のT子が、自分の家に連れていって休ませた。回復した母は、「オレは大丈夫」と言い張ってまた実家に。母を心配したN子が引き取りに行くと、「オレは大丈夫だぞ」と帰るのを拒否。N子は手ぶらで我が家に帰ってきた。
 ところが翌日の夜、T子から電話で「熱中症で倒れた」と連絡が。熱を出していると言う。なにせ、70年ぶりの猛暑なのだ。ところでN子いわく、「先祖の送迎どころでなく、自分が送られちゃうよ」と大笑いするのであった。翌朝早く、N子は実家に向かった。「母を病院に連れて行くこと。点滴をして貰うこと」と、注意して送り出した。やがて、病院で点滴をしてもらって元気を取り戻した母が帰ってきたが、医者は「心臓に問題があるかもしれない」と、大騒動になったとの事。
 「大丈夫」と言い募る母。ちっとも大丈夫ではないのである。


07/08/08
MIN
○婿に気を使う母。
 私が仕事から帰ると、いつも母が声をかけてくる。「東京から何時間かかるんだい」と。「2時間だネ」と応えると、「アー、そうかい」と言う。私が帰るたびに言っていたので、少し惚けたのかと思ったのだが、惚けたようでもない。母は私に気を使って、なんとか話しをしようとしているのである。
 しかし、母と私では共通の話題がほとんどないのだ。それで母は、息子が赤ん坊の時に住んでいた千○市の家のことを話題にする。「あれはどこだったかネ」と。同じ敷地のなかに3軒の家があったことも覚えていたりする。又、その後引っ越した市○市の団地のことを話題にする。「あれはどこだったかネ」と。そして、同じことを毎日のように聞くのだ。ところが、私の口数が少ないものだから話題はすぐ途切れてしまうのだ。
 母が来てから、私がいつも買ってくる缶ビール箱がさりげなく置いてあるようになった。又、私が「豆類が好きだ」というのを聞いて、枝豆なども台所に置いてあるようになった。これらは、母がN子と買い物に行ったときに買ってきてくれたモノなのであった。
 最近、Hoさんの「おしゃべり心療回想報/認知症予防のための脳環境づくり」(小林幹児著)の読書紹介を読ませてもらったら、「脳血管性痴呆の予防はおしゃべりする努力から」と書かれてあった。私も、もっと母とおしゃべりしなければと反省させられたのであった。


07/08/04
MIN
○ホームシックにかかった母。
 母が来て1ヶ月、体力も回復し部屋の中を歩きまわれるようになったとき、急に母は元気がなくなった。「家に帰りたい」と言い出したのだ。ここでは、自分は何の役にもたたないと思ったのだ。それに実家は、母が働いて建てたものだ。母は、「オレの家」と誇らしげにに言う。
 N子が宥めて、「帰ったら又、喘息がぶり返すよ」(母は、父の顔を見るとストレスで喘息の発作をおこす)説得し、週に1回、土日にだけ帰ることにしたのだ。ところが、その土曜になってN子が実家に行く支度をしていたら、母が「何で帰るんだ」と言い出した。「用もないのに帰ってもしょうがない」と言う。結局、取りやめになったのである。どうやら、ホームシックが治ったようであった。
 その母が、2ヶ月ぶりに実家に帰ることとなった。母はソワソワと緊張し、喘息の薬を咽喉に吹きかけていた。1泊して帰ってきた母は、よほど疲れたらしく、帰ってきたなりベットに寝込んでしまったのであった。


07/07/26
MIN
○病院に通う母。
月に1回の通院に、実家の東○町まで、N子が休暇を取って連れていった。
先月の血圧が最高60だったのが、80までに改善した。
歯医者にもいってきた。上顎の入れ歯が、他人のモノみたいに合わなくなっていたので
、型を取って作り直すことにした。
母は、「年なんだから、そんなものは要らない」と、相変わらずである。
それでも、ベットの傍に置いたポータブルトイレを最近は使わず、便所まで歩いて行く
ようになった。
見違えるほど、とはこのことである。


07/07/18
MIN
○喘息が持病の母。
 母は84歳である。喘息が持病で、これまで何度も呼吸不全となって救急車で病院に運ばれている。一時は、「もう駄目か」と思われて奇跡的に助かってきた。そんなことだから、年とともに腰が曲がり身体が小さくなってきた。今は、小学生の低学年くらいの大きさである。血圧も最高が60と、信じられない値なのだ。心臓の機能が、3分の1しか働いていない。だから、いつ死んでもおかしくない、と云われているのだ。
 その母に対して夫である爺さんが、ムシャクシャすると隠れて殴ったりするのだ。それがストレスとなって、喘息の発作がおこるのである。N子が、母を病院から直接引き取ってきたのには、そう云う事情もあるのであった。
 そんなことで、我が家に来てからの母は、まだ本格的な喘息の発作を1度もおこしていない。それも、元気になってきた理由なのである。


07/07/17
MIN
○否定語ばかり言う母。
 今日は祝日で、N子が車椅子に母を乗せて、近くのスーパーまで歩いて出かけた。
その姿を、隣の川○さんのおばあさん(70代)が見て、夜に「柚子の饅頭」を婆さんにと届けてくれた。ありがたいことだ。

 さて、なにも食べなくなった母に、N子が「これを食え」「あれを食え」と、色々作って出していた。ところが、「いらない」「食べない」「それはいい」と、婆さんの口から出る言葉は否定語ばかりである。それも、言下に言われるから、二の句が付けなくなるのである。これでは、嫁さんには手も足もでないと思われた。
 ところが、実の娘であるN子は、途中で怒り出し「そんなことを言っていると、又病院に行くことになるぞ」と、脅かし始めたのだ。どうやら母は、2度と長期入院は嫌なようであった。
 と云うことで、少しづつ食事をするようになった母は、最初はお粥だったものが普通の白米となり、体力を回復していったのである。もっともN子は、母が食べる煮物や酢の物など、昔を想いだして作っていたのであるが。


07/07/15
MIN
○ゴキブリ体操
 今日、家に帰るとN子(私の連れ合い)が母に「少し頑張ってゴキブリ体操をしなよ」、と言っていた。なんのことかと思ったら、息子が「婆ちゃんゴキブリ体操が良いよ」と勧めたのだと云う。血行不良で、足がバンバンに浮腫んで腫れていたので、インターネットで調べたようなのだ。ゴキブリ体操とは、仰向けの姿勢から、手足を天井に揚げてブルブルと振るう体操のこと。それで、手足の末梢まで血を巡らせるのである。母も、形ばかりでもやっているようであった。
 さて、前回の続き。どうして1ヶ月も入院したかと云うと、なにも食べなくなったからなのである。母は、食べ物の好き嫌いが激しい人である。実家では、自分の食べるモノはこれまで自分で作っていた。しかし、体が動かなくなり嫁さんに作ってもらうようになった。ところが、出されるモノに手をつけないのだ。とうとう、梅干しと白米の雑炊しか食べないで、体力がなくなり入院したのだ。病院でも、病院食には一切手を出さない。だから、点滴となった。それで、1ヶ月経ったので退院したのである。
 

07/07/13
MIN
 突然ですが、今日丸坊主に刈ってきました。最近とみに額が後退し、両脇の頭髪で前頭部を隠している髪形が煩わしく感じていたのです。
 と云うことで、今度お会いした方は確かめて下さい。
 さて、養母が我が家に来たのは5月20日のこと。1ヶ月入院していた東○町営病院から、直接やってきました。玄関にたどり着いたときには、息もたえだえなのでした。這ってベットによじ登ったのですが、その衰弱ぶりにビックリしてしまいました。正直、これは永くないナと思ってしまったのです。


06/12/26
フートン
 今年も残すところ1週間あまりとなった。
一年が過ぎる速さは、年々早まるのに新年を迎える感慨は年々うすれていく。
フルタイムで働きながら、年末になると少しの時間を見つけて、窓ガラスを磨き上げるのも苦でなかった昔を思い出しながら、何日もかけてどうにか今年も暮れの掃除を終えた。
約束がしてあった友人3人で、都内のホテルのランチバイキングに出かける。
どこのホテルもランチの売り上げには、力を入れているようで、ここもおばさん達でいっぱい。
軽くワインを飲みながら、久しぶりのおしゃべりを楽しんだ。
友人のAは今も大手デパートのブランドを扱う売り場でチーフとして働いている。
食事の後、彼女の案内でデパートめぐりをした。
ショート丈のダウンコートに的を絞り、次々と各メーカーをのぞいて歩いた。
おびただしい数の同じ様に見えるダウンも、彼女のアドバイスで、スタイルと品質の違いがわかり、値段の差がわかり、自分の欲しいものが絞られていく。
納得の行く、買い物をした時の満足感は心の充足につながるようだ。
「いくつになっても同じねー」と笑いあった。


この蘭で3年間、好き勝手に書かせていただきましたが今回で終了したいと思います。
編集長には、貴重な体験をさせていただいたことに深く感謝いたします。
今後は一読者として参加させてください。ありがとうございました。


06/12/19
フートン

イエメン10日間(荒野のワンウェイ)
旅の3日目からは、4輪駆動車(4WD)での移動になる。
道路はほとんど舗装されていた。
日本からの添乗員Mさん、現地ガイドのムハンマドさん(共に男性)を含む総勢19人は、7台の4WD車に分乗し、荒野のワンウェイをひた走り、到着した街でキジルコーヒー(コーヒー豆の殻を挽いたもの)とホプス(ナン)でティタイムを取り、古い村を散策し、また走り続けた。多い日は一日600kmほど走った。
荒涼とした全くの手付かずの自然が、ビュンビュンと車窓に消えていく。その快適さに、どこも見学せずに、このまま、ずーっと走っていたいと本気で思った。

イエメンの西側は3000メート級の山が連なる山岳地帯で、岩とがれきの山の合間をぬって、サナアからアラビア海に面するアデン(南北統一前の南イエメンの首都)に向かう。
長距離移動の道路には、検問がいっぱい。
州が変わるたびに、外国人の車は書類を提出し、国内車は銃の点検を受けるのだそうだ。銃規制のないこの国では、銃が一箇所(同じ部族)に集まるのをこうした形で防いでいる。田舎町では男たちが普通に銃を担いでいるのを見かけた。

途中、古い石造りの町イップに差しかかった時は、ちょうど昼時で買い物客と車で大混雑。数百メートルの街を抜けるのに20分ほどかかった。シェスタの前のこの時間、どこもこんな感じになるという。
また、このイップの山頂にあるレストランでは、銃を持った兵士に囲まれたビップらしき男性たちとその婦人と一緒になった。刺繍のある美しいビジャブを着た婦人たち4人は、別室で食事をするため案内されて姿を消した。この国では、レストランで女性を見かけることはない。

また、夕方時になると、空き地は子どもたちのサッカー場となり、たくさんの子どもたちが元気に走り回っていた。
4WD車は、外国人旅行者と知っている子どもたちは、手を振って追いかけてくる。低学年の女の子が、顔は隠さないがビジャブ風の服にランドセルを背負う姿はすごくかわいくて、思い切りバイバイをしてしまった。

イエメンの結婚式は、毎週金曜日に行われる。午前、花婿は家族や友人と祝いのジャンビーアダンスを繰り広げる。旅の後半、その場所のひとつワディタハルの山頂に寄ったが残念!この日、宴はなかった。結婚式は男女別々に3日間お祝いがなされ、花嫁と花婿はその後、初めて顔をあわせるという。
ガイドのムハンマドさんにその辺の事実を聞くと「小さいとき顔を見知った相手が多い」ということだが‥‥。いまでもこんな世界があるのだ。
観光地であるワディタハルには、大勢の人がいて、私たちのためにジャンビーアダンスを披露してくれた、一緒に踊りながら、彫りが深くハンサムなイエメン男性たちは一様にシャイであると思った。

到着したアデンは近代的な都市であった。アデン港で海を眺める。季節は冬なのに、この地域は特に日差しが強く30度を越す暑さであった。

 山岳地を抜け、イエメン東部の広大な砂漠地帯ハドラマウトに入る。
車はここでもトヨタの4WD車(この国の8〜9割がトヨタの中古車)だったがドライバーたちは、この地方出身者なのか、とても純朴であった。
アル・ラヤン空港から、岩漠と礫漠、砂地の入り混じった黄土色の砂漠地帯を1時間半ほど走ったところに、アラビア半島最大のワディ(枯れ川)がありグランドキャニオンのような地形を展開する。その大きさ東西160km、巾は2km、深さ300mもあり、雨が振れば今でも巨大な流れを作りだすそうだ。
ワディ・ドアン渓谷の谷底には地形と一体化したような村が、岩にへばりつくように点在していて、不思議だった。

このハドラマウト地方に、ガイドブックなどで有名な砂漠のマンハッタン・世界最古の摩天楼都市と呼ばれるシバームがある。12世紀頃に造られたというこの日干しレンガの町は、高さ30m、約500戸の家が密集し2500人ほどが今も住んでいるという。
少し離れた山の上から、夕日に輝くシバームを眺めた。砂漠の真中にニョキニョキと並ぶビル群は圧巻であった。

イエメンでは、どこへ行ってもあちこちのモスクからアザーンが1日5回、キッチリと聞こえてきた(マイクを通して)。今でも肉声で流しているというその声は、ろうろうと響き、特に朝5時少し前のアザーンは、唱和を聞いているようで心を揺さぶられた。
また夕方5時のアザーンが終わると農作業を終えた女性たちが、ロバにわらを積んだり、頭上に大きな荷物を載せて、黒や花柄のロングなドレスで家路を急ぐ姿は絵のように美しかった。が同時に、その暮らしぶりが気になった。
異文化のこの国で、最初から最後まで心を奪われたイエメンの女性が、この旅のメインだったような気がする。顔を隠したベールがとれるのは、いつの日のことだろうか。
おわり


06/12/12
フートン

イエメン10日間(首都サナア)
 標高2300mにあるイエメンの首都サナアの空港に降り立ったのは、家を出てから27時間が経過していた。(関西空港―カタール・ドーハ乗換えーサナア)
飛行機は苦手であるが、今回のカタール航空機は、前後の座席巾が広く、横も座席2・4・2・列と通路に出やすく快適であった。(5ッ星だと聞いた)
 待っていたバスに乗り、そのままサナア見学へ。
サナアは町全体が博物館のようであった。
日干しレンガを積み上げた5〜7階建ての細長い家(これで一戸)が、ひしめき合って立ち並ぶ。雨水がしみ込むのを防ぐため、窓わくに塗られた白いしっくいが茶色のレンガと対称をなし、美しい窓を形成している。
まるでおとぎの国・アラビアンナイトの世界。
地震のないこの国では数百年以上の家もめずらしくないという。その中で公開されている一軒の家により、最上階(7F)でコーヒーを飲んだ。窓から見下ろすと、今歩いてきたおとぎの国の風景が周りを囲む山の方まで、えんえんと続いている。
この7階の部屋はマフラージと呼ばれ、いわば応接間(男だけの社交場)
家の格式をあらわす事から、贅をつくして飾り立て、商談相手や友を呼び、カートや水タバコで午後のひと時を過ごすのだそうだ。ステンドグラス、アラビックなクッションがいこごちよかった。

 スークに入ると、その喧騒と香りにモロッコを思い出した。
スパイスに加えイエメンの特産の乳香、金銀製品、華やかな布地、穀類、果物とあらゆるものが並べられ大賑わい。
 アラブ人独特の射すような目に、緊張しながら一軒一軒覗いて歩く。
 男性の服装がおもしろい。
 白い長袖のワンピースのようなものをまとい、腰に刺繍の入った太いベルトを巻き、へその前に三ヵ月型の短剣を差して歩く。ジャンビーアと呼ばれるこの短刀を差して歩くのが、一人前の男の身だしなみなのだそうだ。
 そのジャンビーアを差した大の男・二人が手をつないで歩いている姿をよく見かけた。二人は親しい友だちという意味だと説明を受けた。
このジャンビーアは代々、親から子へとうけつがれるものだという。
 午後のスーク(市場)では、どの男たちも片側の頬に、ゴルフボールを入れたようにプックリさせて店番をしていた。カートといわれる葉っぱを噛む風景である。
 私たちのドライバーも午後になると、毎日、休憩所や道ばたで売っているカートをビニール袋に入れて買ってきた。
葉っぱを一枚一枚口に入れながら、(軸はポイポイと道路に捨てていた)そのエキスは飲み下し、残ったカスを片側の頬にためていく。はちきれんばかりのほっぺは可笑しかったが
ドライバーは「ノースリープ」だとガッツポーズを作った。
軽い覚醒作用があり、一種の高揚感が得られるという。
 
 女性はもっとエキゾチック。
家族以外の男性に顔を見せてはいけないというイスラムの戒律をキッチリ守り、ベジャブと呼ばれる真黒なべールで頭から足元までを覆い、目だけを出して女性たちは歩く。
神秘的なその姿は、街を背景に被写体としてピッタリなのに、シャッターは押してはいけないのだ。
振り返っては眺め、後すがたを追うばかり‥‥。
黒いベールがほっそりした肩でゆれ、足元からジーンズが覗いたり、すれ違いざま、澄んだブルーの瞳だったりすると「10代かなー」と思ったりするだけ。
ただ夕方になると、金や銀などのアクセサリー店には、決まって黒いベジャブの女性たちが群がっていて、ほほえましく応援したい光景だと思った(カラスの集団みたいでもあった)

でも待ったかいがあって数日後、ある観光地で、若いご夫婦がベシャブでの写真OKのサインを出してくれた。妻の方はためらっていたが、ハンサムな夫君はそれをとりなし、私たちはシャッターを切りまくった。
また別の日、3人の子どもを連れた、若く美しい母親はベールを被らずに歩いていて、写真にも納まってくれた。その長男は(7才ぐらい)ジャンビーアを差しビシッと決めていた。
少しずつ女性の意識が、変わりつつあるのを感じた瞬間だった。

 サナアには、旅の最終でまた戻り、2連泊した。旅に大分慣れた私たちは、再び出かけたスークで、おじさんたちとジョークを言い合い、値引き交渉も上手くなっていた。
けれどイエメンの女性たちは、買い物をする姿は見かけても、店やレストラン、ホテルなど、どこをみても公の場所で働いている姿は見かけなかった。   つづく


06/12/05
フートン

イエメン10日間
11月後半、10日間のイエメンツアーに参加した。
20代から70代、17名の参加で、男性は1人(ご夫婦)、内12名が一人参加の女性という組み合わせで、今回も女性パワーを感じた日々の連続。

思いもかけず、イエメンは国土の70パーセントが山岳地帯という山国で、ほとんど緑のない山だが、連なる3000メートル級の山の間をぬって村から村へ駆け抜けるという旅であった。(4輪駆動車で)イエメン共和国は、アラビア半島の最南端に位置し、国土は日本の1・5倍、人口は2000万人弱の農業国である。
シバの女王で名高いシバ王国の時代は、インドと地中海を結ぶ、海のシルクロードの要地として栄え、強大な国家を築いていたそうだ。
時代は移り、今、他のアラブ諸国がオイルマネーで飛躍的に世界の金持ちクラスの仲間入りしたのに比べ、天然資源に恵まれないイエメンは「アラブの最貧国」と言われている。
(最近になって油田が見つかったそうだ)
 確かにメイン通りから1歩入った空き地などは、ゴミの山、独特の匂い、砂ほこり‥。
「これでも乗れるの?」と思うくらいのオンボロな車、車。
それだけにアラブの世界で殆ど見られなくなったイスラムの習慣をもキッチリ守り、大地に足をつけ堅実に暮らしている姿に、ほんとうの豊かさとは?と考えさせられた。
 アラビアンナイトのような街を行き来するミステリアスな女性たち、とっつきにくそうであるが、現地語で挨拶すると、とたんにフレンドリーになるシャイな男たち。はじけるように元気な子どもたち。
10日という短期間だったが、私の感じたイエメンを綴りたいと思います。 つづく


06/11/14
フートン
 2泊3日で沖縄に行ってきました。
 晴天に恵まれた11月の沖縄は、ハイビスカスやブーゲンビリアなどカラフルな花が咲き乱れ、鳥が鳴き、コバルトブルーの海と、まさに南国でした。

空港近くのレンタカー屋さんを出発したのが午前11時。
初めに首里城の近くにある金城町の石畳を歩いた。
かろうじて戦火を免れた石畳の道沿いには、昔ながらの赤がわらの民家が立ち並び、琉球王朝時代を偲ばせる場所であった。
首里城の正門近くの「ソバ・ほりかわ」というおしゃれな店で沖縄そばを食べてから(おいしかった!)高台に登り普天間基地を眺める。何台かの軍用機らしいのが並んでいた。

その基地のすぐ近くにある佐喜眞美術館が次の目標。
コンクリート打ち放しの現代的なこの美術館には、「原爆の図」で有名な画家、丸木位里・俊夫妻が描いた「沖縄戦の図」がメインとなって展示されている。
四方の壁にかかる大きな絵はモノクロで、どの絵もたくさんの人の姿だけで構成されていた。沖縄戦で逃げ惑う人々。壕のなかで起きた惨劇の様子。画面いっぱいに描かれた骸骨の悲しそうな目、目‥。モノクロの絵に、ただ一色使われている赤い色に、痛ましさと怒りが吹き出ているようであった。
企画展としてシャガールが展示され、夕方から開かれるという館内コンサートの準備がされていた。
 
この日の宿は読谷村の「まーみなー」というペンション。オーナーの会沢芽美さんとは知り合いで、その会沢さんのおすすめで夕方から「読谷村まつり」にでかけた。
美しい赤瓦の屋根を持つ読谷村役場の広場は、何列も何列も露店が並び、私はまた「ここはアジアだ」と思ってしまう。
本土では味わえない祭りの雰囲気に酔いながら、婦人会の人たちが作った手作りの保存食をしこたま買い込んでしまった。

2日目はカーフェリーで伊江島に渡る。本部港から30分。
この島は沖縄戦の激戦地で、疎開しなかった人たちはほとんど亡くなったという話。
基地返還闘争で米軍と渡り合った農民運動家・阿波根昌鴻さん(故人)の家があり資料館となっていた。
‥が、改築もされないままの資料館は、収集物がほこりにまみれ心が痛んだ。
70代の館長(女性)さんは「沖縄にいると、日々エスカレートする物凄い演習に、いつ戦争が始まってもOKの準備ができているのがよくわかる。
それなのに本土のマスコミは小さな記事にしかしていない。そのことに驚いてしまう」と語っておられた。

夕方、恩納村に戻り、マリンビューというコンドミニアム風なホテルに泊まる。
夕食は、市内にくりだし沖縄料理の居酒屋でもりあがった。
海岸線を走っているとき宿から、ブセナ・テラス(2000年のサミットで使われたホテル)が近いことがわかり3日目の朝食はそこでという話になった。
メインダイニングのファヌマンは「おーっ」と歓声を上げてしまったほどの眺めのよさ。
青い海を眺めながら、ハンサムなフランス人(支配人か)のジョークに笑い、コンチネンタルを注文した。
サミット会場の万国津梁館も見学。

最後の目的地、沖縄本土最北端の辺戸岬へ向かう。
途中、大宜味村にある芭蕉布会館に寄った。
生成りの地に茶色の絣が入った芭蕉布。カリッと軽く風通しのいい芭蕉布。
芭蕉を育てるところから始まり、信じられないほどの手間と熟練を要するというこの布は、とても高価で手が出ないけど、本場で本物を見る楽しさも格別。
加湿器から蒸気を出しながら、5人ほどの人が芭蕉布を織っていた。人間国宝の平良敏子さんも居られて、作業工程の一部をお話いただいた。
ケイタイストラップとキイホルダーになっている芭蕉布を買った。
そこから1時間ほど走ったところが辺戸岬。
コバルトブルーのその先にヨロン島がかすんで見えていた。
 おわり。


06/10/31
フートン
ハンガリー国立歌劇団が公演しているオペラ「トスカ」を東京文化会館で観た。
しばらく前、編集長が「トスカはおすすめ」とブログに書かれていたのがインプットされていた。(確か‥)
テレビ放映のオペラや、マリア・カラスのアリア特集などをCDで聴いたりしたことはあるが、本格的に観るのは初めて。
オペラは、何か敷居が高い気がしていた。

‥‥が、さすがプッチーニの名作。
ドラマチックなストーリーはとてもわかりやすく、その流麗な旋律と共にぐんぐんと引き込まれていったのでした。
──邪心で好色な警視総監に見初められたがため、歌姫トスカは、恋人をも巻き込んで、壮絶な悲劇の坂を駆け下りる──。
折々に歌われる「歌に生き愛に生き」「星は光りぬ」「妙なる調和」などというアリアもなんと美しいメロディか‥。
安定した歌唱力に安心感をおぼえながら、それにしても、オペラというのは、歌唱力だけでなく、演技力もかなり求められるものだということを再認識する。
奮発して買った前から9番目の席からは、歌手の表情もわかり、舞台両側に出る翻訳も簡潔で洋画を見るよりゆったりとした気分。
そして、会館の音響の良さもあるのか、ホールに響くオケの音も心地よく初めてのオペラは、私にとってブラボーであった。


06/10/24
フートン
食べ物二題
北津軽板柳町のりんご
9月中旬だったろうか、みのもんたのワイドショーで青森のりんご農家が紹介されていた。
20年間、化学肥料を使わない土地、低農薬、葉取らず栽培、丸かじりOK.
福士農園の主、忍顕さんの「私の土は甘いんですよ」と土をなめている姿に感動し、テレビ局で電話番号を聞き注文してみた。
 今日、うす緑色の王林と、真っ赤な弘前ふじ32個が送られてきた。
王林を丸かじりすると、シャキシャキとした皮の間から、甘酸っぱい汁がしたたり落ちる。
「樹上完熟りんご」のおいしさを思いっきり味わった気がした。
値段は送料を入れても1個143円ほど(自宅用で)
しばらくはまりそう。

そうめんうり
新潟の人から「そうめんうり」というものをいただいた。
黄色い楕円形のメロンという外見。
食べ方は、その両端を切り落とし二つ割にする。かぼちゃのように結構硬い。
中の種を取り除き、半片を4つぐらいに切って茹でる。
10分ぐらいするとすき通ってくるので箸で触ると中の実が糸状にほぐれてくる。13〜4分茹でて水に取り2回ほどすすぎ、冷たくなったところで中の実を手でほぐすと細いそうめん状にほぐれてくるのであった。
皮と同じ黄色をしたそうめんうりの感触は大根の細切りのようで味はないというべきか。三杯酢にして器に盛ったら、あっというになくなった。


06/10/17
フートン
コミカルな音大生青春群像ドラマという見出しにひかれ、新しく始まった「のだめカンタービレ」を見た。(フジテレビ)
クラシックの既成観念を笑いで、ひっくり返したという人気漫画が原作だそうだ。

音大一のエリートで指揮者を目指す超自信家の"千秋"(玉木宏)とゴミ屋敷に住みながら天才的にピアノを弾きこなす"のだめ"(上野樹里)のラブコメディを中心にしてドラマが展開される。
これぞフィクションというシーンが重なり合い、期待を裏切ることなく進んでおもしろい。
ベートーベンやモーツアルトの名曲がふんだんに流れ、声楽がながれ、先日DVDで見たアマデウスを思い出させる。
続きが楽しみ‥。


06/10/11
フートン
娘の家族4人が来るというので、料理の一品として「きんぴらごぼう」を作る。
孫たちも大好きな料理である。
それにしても最近のごぼうは硬い気がする。
昔、実家の母が作る「きんぴらごぼう」は,炒り煮をするとパリパリしていても柔らかさがあった。
結婚してから貸農園で義父が作ったごぼうもそうであった。
取れたてだったからだろうか。
今、泥つき、国産もの、新しそうなもの‥‥と吟味して選んでもあの味に出会えない。

先日,料理家の栗原はるみが、その切り方を斜め薄切りにしてからせん切りにするとよいといっていた。
「なるほどねー」と大いに感心して今回真似をしてみる。
いつもより神経を使い、少し細く気って炒り煮をする。
ちょっとは、ましな気がしたがやっぱり思いえがく味ではなかった。


06/10/02
フートン
家族が寝静まった夜中、一人で起きていると自分の最終の老後が気になる。
最後はこんな風な毎日になるのか。
子どもたちと一緒に住んでいたこの家は、一人には広すぎる。
と、いうと「やっぱり貴女も夫より長生きすると思っているの?」と笑われるが、平均寿命から考えると女性が残るほうが率的に高いのだから、そう考えたくなるのだ。
友人のAは言う。
「私はヘルパーさんを頼んで自分の家で最後まで、わがままに暮らしたい」と。
そこまでの結論が出せないでいる私は、姉妹(私たちは3人)がもし一緒に住むことができたら、楽しいかもという他力本願?の思いも浮かぶこのごろ‥である。


06/09/27
フートン
先日、修理をしてもらったDVDプレーヤーの調子を試そうと、レンタル店に立ち寄り目に止まったのが「アマデウス」。
見はじめて、全編に流れるモーツアルトの曲に改めて感動した。
昔、映画館で一度見た作品であるが、時を経て一人でじっくり味わうと、そのメロディは甘美で心地よく、時に崇高で、時にド迫力をもってせまり、その変幻自在さにテレビの画面で見ていることをわすれさせるほどであった。

ストーリーもおもしろい。
天才モーツアルトに激しく嫉妬する宮廷音楽家サリエリ(秀才タイプ)の回想録として物語は展開していくが、その語りの中で天才か、アホかといわれるモーツアルトの人物像が浮き彫りにされていく。このサリエリを演じている役者が上手い。
華麗な音楽的な見せ場と、35歳で逝ったモーツアルトの死因をめぐるミステリーが絡み合い、3時間があっという間に過ぎていく。
曲が作られていく背景もわかり興味深かった。

また、結構わかりやすい(聞き取れる)英語で話されているところがあり、新発見であった。


06/9/22
フートン
編集長が九州に行かれたという記事にびっくり。でもよかったですね。
お酒は慎まれているという様子ですし。
50代以降は、死と隣り合わせにいるというコメントを肝に銘じておきたいと思いました。

我が家ではこの夏、家電製品などが次から次へと壊れた。
初めはシャワートイレ。
便座だけ取りかえようと思ったが、94歳の義母のためにタッチパネルを、推しやすい壁付けにしたので下の便器まで取りかえることになった。
次にガスコンロ。
焦げ付き防止のセンサーが機能しなくなって、一ヵ所火がつかない。思い切って今流行のガラストップのものに換えた。でもこれは主婦にとってはちょっと嬉しいかも‥。
そして購入7年目のテレビ。今回調整で直ったが、デジタル化にあわせ買いかえることになりそう。
それからDVDの再生ができない。保障期間中だったのでメーカーに修理を依頼して、どうにか直すことができた。
やっとほっとしていたのに、また昨日、門につけてあるインターホンが「ピンポ−ン、ピンポーン」と鳴りやまない。一応電源を切って対応し、来週の修理を依頼した。
出費も多いし、それに修理にあわせて時間の都合も大変な夏であった。
まだ続くのかなーと構えているような日々なのである。


06/07/12
フートン
孫がスイミングスクールへ通うというので娘夫婦と共に、そのオリエンテーションに出席した。
結局、忙しい親に代って私が連れて行くことになりそう。
娘もそのつもりで私を呼んでいる。
「まあ、孫と関われるのもあと少しかもと」自分を納得させて出かけた。

‥が、そのスクールの溢れんばかりの人並みと、甲高い子どもたちの声、パワーみなぎる若い母親の姿に、しばし圧倒される。
「小学校の全員が来ているのかしら」と娘。
まさかそんなこともないだろうが見知った人に、次々と挨拶している。
塾通いも低学年化していると聞くが、こうした習い事には、2歳ぐらいの幼児の姿も見える。

スクール独自の水着、半そで・半パンツのウエアー、帽子、ゴーグル‥と購入することになる、それだけで16000円。
月謝は、月に4回コースで7000円ぐらい。
それを月8回コースにしたり、体操クラブと並立させたりしながら、送り迎えする母親たちの姿に、子どものために、わが身を投げ打つ凄さを感じる。

一方で、シングルマザーなど、こうした費用など捻出できない家庭の子どもたちもいるはずだと思う。
親の経済力と意識が、学力まで決定する仕組みの一端を、垣間見た様な気がしたオリエンテーションだった。


06/07/04
フートン
自己の戦争体験を語り継いでいるSさんは77歳。
小学生のとき「レ・ミゼラブル」を読み、そこからフランス革命を知って、日本との違いに驚いたという利発な子だったらしい。気骨があり、尊敬したくなる人だ。
癌の宣告を受け、大きな手術をしてから、その語りはいっそうの熱を帯びてきた。

Sさんは1944年の夏、「満蒙開拓青少年義勇軍」という名で満州に渡った。14歳だった。
義勇軍は14歳〜16歳の少年たちを、各学校に割り当てて募集。
貧しい農家出身者などが多く、その数はおよそ10万人にも達したという。
開拓移民(約22万)と軍の補充部隊として、狼が群れをなして歩いていたという氷点下40度を超える地で、過酷な開拓農業、軍事訓練を強制された。
飢餓、リンチ、チフスなどで仲間が次々と死んでいった。

あげくの果て、1945年8月ソ連軍の満州攻撃の際に、支配していた関東軍は満州全部を放棄し逃走。追いつかれないようにと自分たちが渡り終えた橋や鉄橋を爆破しながら逃げ、残された開拓民と少年義勇軍は坊弾堤とされたのだった。
多くの残留孤児と犠牲者が続出した。
「棄民ですよ」とSさん。
いまだに、誰が・何人が、義勇軍として渡り、何人が帰ってきたのか名簿の整理さえもできていないのだという。

負の歴史は、絶対に教科書に書こうとしない日本政府。
Sさんは、命ある限りこの体験を伝えたいと、小学校でもどこへでも出向いていく。


06/06/27
フートン
6月というのは、私にとって忙しい月だ。
梅やレモンなどの果実酒作り、梅干の漬け込み、らっきょう漬けと目白押し。
加えて、今回は二女が3週間も帰省して、2歳半の孫(男の子)に、ほんろうされ続けた。
やっと帰って「やれやれ!」というところである。
二女は、神戸へ帰るのに、ここ何回か飛行機を使っている。羽田〜神戸間が一万円ジャストで、新幹線より安く1時間でついてしまうというのだ。
空港まで送り、その足で、ちょうどその日、誘われていた「利き酒の会」に神奈川県の戸塚まで出かけた。
横浜に住む友人の夫さんが、その会の主要メンバーで「最近は料理も旨いよ」というのに惹かれて、その気になった。30人弱の出席者か。
各人の席には6個のグラスと真水用のグラス、筆文字のメニューが置かれていた。
初めに銘柄の異なる3種類の吟醸酒が注がれ、酒屋の店主のうんちくを聞く。
アンケート用紙みたいな紙が用意されていて、書きたい人は、飲んだ感想を書いていく。
次から料理が運ばれてきた。
前菜、お造り、焼き物、煮物‥‥と結構吟味された味であった。
酒の方も、純米吟醸、うすにごり生、大吟醸と順次注がれた。そして最後はどれでもすきなものを飲んでいい。
やっぱり大吟醸が一番美味しいかなと思った。
「水をたくさんのんだほうがいい」という夫さんの助言で私も友人もそのとおりにした。
友人宅に泊まったのだが、久しぶりにあれだけ飲んだのに、朝すっきりしていたのは、そのためだったかもしれない。


06/06/13
フートン
6月9日・10日、NHKが「日本の、これから」という番組の中で、日米軍事同盟を取り上げ討論が繰り広げられていた。
私は、2日目の米軍再編成問題の途中から見たのであるが、額賀防衛庁長官が、しきりに「国益のため」と説明していた。
小泉首相もよく使う言葉だ。
強化される日米軍事同盟も、自衛隊のイラク派遣も国益のためということになる。
いったい誰が利益を受けるのであろうか。
国民を納得させるために、考え抜いた言い回しのような気がして、そのたびに反論しながら聞いている。

日本国内の基地の75%を押し付けられている沖縄の負担軽減には、ほど遠い今回の再編。
それを日本政府の働きかけで大きな削減になったと説明する長官。
そして、ジェット機の騒音、米兵の犯罪など、基地に苦しむ沖縄の本当の姿を伝えようとしないNHKが、こうした問題を取り上げても、どこかにアリバイ的な匂いが感じられる。このシリーズ、設問の仕方などもイマイチで毎回、消化不良を味わっている。
出演者の金城さん(確か?)が「沖縄の人の収入は本土の人の4分の1。これが基地を60年以上も抱える沖縄の現実ですよ」と静かに語ったのが、心に響いた。


06/06/06
フートン
 職場の昼休み。
若年性アルツハイマーの話になった。
食生活の欧米化が原因のひとつといわれているが、他に夜型人間、昼夜逆転の生活をする人が多くなったからではないかという説があると一人が言った。
日中、雨戸を閉めて寝たとしても真っ暗にはならない。
その光を脳が感じながら眠ることが問題らしい。
複雑化する社会生活の中で、なんとも不幸なことではないかと思う。

そうした視点で周りを眺めてみると、年をとっても頑固なくらい早寝早起きしている人はとても元気だ。
遅寝遅起きの私は、今日から心を入れ変えようと思ったのだった。


06/05/30
フートン
 今年の4月、今まで駅前の地下にあったフランス料理店が、我が家の近くにある県立の劇場の中に移ってきた。
私はホテル級の味だと思っている。気さくなマスターもいい。
家から徒歩で20分あまり。近くの友人3人でランチに出かけた。ウイークデーだったが店はいっぱい。
久しぶりだったので、奮発して3500円のコースにした。
そして「妻はセレブで‥」とまずは赤ワインで乾杯。
農家と契約栽培をしているという野菜類のあまい事。

「ネー。中田(英寿)はカッコよかったわねー」とK.
私も空港へ向かうジーコジャパンの選手たちの姿に、見とれていた一人なので「ホントホント」と相づちを打った。
0中田のサングラスをかけたスーツの着こなしはモデルなみだと思って見ていた。
「イタリアへいって、人一倍みがかれたという感じね」とプレーそっちのけの話になる。

とりとめのない話題がたのしい。
二人とも、舅、姑と長い間過ごし見送っているので、私の愚痴もよく受け止めてくれる。
2時間半のランチタイムはあっという間に過ぎた。


06/05/16
フートン
孫のMは新一年生。
「学校で一番すきなのは、な〜に?」ときくと
すかさず「がくどう!!」という答えが返って来て大人たちを笑わせてくれる。
Mは、運よく学校に併設されている学童保育に入ることができて、授業が終わると校門を出ることなく移動できる。
その点は昨今いろいろの事件がおきている中、安心である。
母親である娘は「これなのよ、困っちゃう」と苦笑い。
娘がイマイチと考えるのは学童の中身。
毎日、袋菓子のおやつが出て、時間給のバイトのおばさんが交代で見ているだけ。
母親も安心して働くことができ、児童にも豊かな放課後をという学童の理念(多分)からは大きくずれるが、これが日本社会の現実のようだ。
意識的な学童は、専門の指導員がいてカリキュラムが作られ、手作りおやつも出るという。それは父母たちが運動して作り上げていったものであろう。
「せめて、おやつをコープ商品ぐらいにする話し合いはできないの」と言ってみたが新米の学童の母親は当分言い出すことはできないだろう。


06/05/09
フートン
5月の連休には、遠出をしないとしてから久しい。
ちょうど衣類や暖房器具など夏物と入れ替えの季節でもあるし、春雨に打たれ急速にのびる雑草を取る時期ということもある。
年齢と共に一気に終わらせることができなくなった。
それでも、今年もゴミ袋2個分の衣類を処分することになり、物が少し減ったかなと一人喜んでいる。

休日の最後の日、懸案だったウィッグ(かつら)を見に出かけた。
最近パーマをかけず、ヘナ(植物染毛剤)で染めるだけにしているので、以前より毛質がよくなったと思っているのだが、私の場合ツムジが頭頂部より下にありそこに分け目ができてしまうので、娘たちに事あるごとにすすめられているのだ。
また、旅行すると、グループの何人かが着用しているらしいことに気がつくことも理由の一つ。
デパートで働く友人に聞くと「洋服が映えるわよ。今日は決めたいと思った時には手放せない」とアドバイス。事務所で、今年入った若い子に聞くと「ゴージャスになりますよね」とこともなげに言った。
期待しながらもためらいのある私には、そんな風な考え方もあるのかと感心しながら出かけたのだった。
デパートの中にあるフォンテーヌのショップ。
初めは、「部分かつら」と思っていたのだが、試しているうちに、すっぽりと頭の7〜8分まで被るウィッグの方が似合うことがわかってきた。

次々と来るお客のほとんどが愛用の人たちであった。
素人の私には、その髪形が結構自然でステキに見えたのはひいき目ということなのか。
修繕に出しに来たり、二つ目を物色にきたり、着物で訪れた2人連れは、わざわざ店に寄ったらしく「とてもお似合いです」といわれて満足げに帰っていったり。
そういう人たちに触発されて決心してしまった。
20万円だった。アフターとしてカットの直しはもちろん、毛髪が薄くなってしまったときは植えこみなどもOKなのだそうだ。
テレビなどでよく宣伝しているオーダーウィッグ、イヴクイーンやアートネイチャーなどを使っている友人に聞くと「50万円ぐらい」という。
それに比べると半分以下の値段なのだが、私にとってはとても高い。
やっと買ったウィッグ、先ずは挑戦という気分である。


06/04/25
フートン
夫の友人、Tさんが亡くなった。
その葬儀はTさんらしく、戒名をとらず、音楽葬で行われた。
生前のTさんは、マーラーを、ヴェートーベンを、モーツアルトを熱く語り、また、抜きん出る文学的才能と語学力で芭蕉の俳句を英訳・英文解説して分厚い2冊の本にまとめ上げるという業績を残している。(芭蕉の足跡を実際に訪ね歩き10年ぐらい掛けて完成させたとか)ワインを好み、一線を退いた後も、友人知人を招いて開かれるワイン談義は有名で「Tさんが私の人生を豊かにしてくれた」と話す人が少なくないという。

当日は,読経の代わりに、マーラーの交響曲第5番第4楽章が静かに流れ、親族とTさんをよく知る友人だけで献花が行われた。
6才のお孫さんが読んだジージーへのお別れの言葉は、参列者の心に染みわたるものだったという。最後まで自分の生きざまを貫いた人の告別式の話を聞いたのだった


06/04/19
フートン
編集長とMINさんのベトナム旅行記を楽しみに読んでいる。
8年ほど前、ホーチミン5日間の旅に参加したことがあるので、追体験しているような気分。それにしても編集長は銃が好きなんですね!!
街に出て「ヲンナ」「ヲンナ」と言う呼び込みがいっぱいというくだりで、思い出したことがある。
その旅は20名ぐらいのグループだったと思うが、私は1人参加だった。
フリーの一日、ホーチミンの街をぶらつきたいと思い、ツアー会社に現地でガイドをしてくれる人を頼んであった。
やってきたのは、私たちのバスに見習いとして一緒に乗っているダン君。23〜4歳だったろうか。
ガイドそのものは、まだ駆け出しの様であったが、日本語がとても上手だった。
書店や、画廊、市場などをのぞいたり、スゲ笠で天秤を担ぐ物売りのおばさんや、白いアオザイの女子学生に被写体になってくれるよう声を掛けてくれたり、時折りザーッと来るスコールをよけながら、一日中歩きまわった。
礼儀正しく、遠慮するダン君だったが、お礼を兼ねて夕食をご馳走した。
ホーチミンへ行ったら、ぜひよってみたいと思っていたマジェスティックホテル。
食事中に彼のケイタイが鳴って、とても浮かない顔になった。
「バカな日本人」小さい声であったが彼はそういった。
聞けば私たちのグループの男性たちが、その「ヲンナ」のところへ案内しろと言っているらしい。「日本の男性が一番いやだ」とも言っていた。
拒否をすると仕事がもらえなくなるのだという。
「日本人の男性から10倍くらいふっかけた値段を取るといいのよ」と私。
後味の悪い食事になってしまった。
経済大国という思い上がりの中でアジアの女性を蔑視する風潮。
そうした風潮が続いているのだろうとは思っていたが、あらためて聞くと憤りと共に悲しいことだと思う。


06/04/11
フートン
実家の母親と弟夫婦を招き食事をした。
我が家から車で1時間半ほどの田舎にある実家なのだが、私が姑と一緒にいるので遠慮して、なかなか気軽に出かけてこない。
今回も3年ぶりぐらいだろうか。
85歳になる母は、髪を染めるのを止めたらしく、ほとんど白髪でちょっとの間に老けた気がした(と同時に私も、いつかは、ああなるのだと思った)
私と同じ立場にいる弟の嫁さんは、もっと来て欲しいと思いながら8年ぶりの来訪になっていた。
米と野菜と一緒に、近くにあるという手作りの店から昔ながらの草もち、あんびんもち(塩味のあんが入った大きめな大福)、いが饅頭(あん入り麦饅頭のまわりに赤飯をまぶしてふかした物)を土産に持ってきた。

庭に隣接する神社の桜が少し散り始めた日で、カーテンを全開にし、窓ぎわいっぱいにテーブルを出した。
座ると花を通して空が見え、頭上から花びらが落ちてくるような眺めになって、この季節これが一番のご馳走になる。
いつも寿司や天ぷらなどの日本食になってしまうので、今日は少し趣向を変えようと中華料理にしてみた。6人という人数なので中華は作りやすい。
前日から仕込み、シューマイ、エビチリ、チンジャオロース、スープと、たれの加減をレシピとにらめっこしながら、一品ずつ仕上げていった。
少し甘めにした紹興酒を、母も義母も美味しいといって飲んだ。

この二人を中心にして話をしているつもりなのに、気がつくと私たち4人の独壇場となり、年老いた二人は聞き役になっていた。
夫の姉妹たちが、義母を訪ねてくるときも同じ光景が展開される。
「もう来なくてもいい」とつぶやく義母。
年をとるということは悲しいことだと思う。
杏仁豆腐と中国茶でしめくくり、みんなで記念撮影をした。


06/04/04
フートン

3月の末、女3人(姉妹)で出かけた鶯宿温泉は「冬の嵐になるでしょう」という予報の通り、吹雪に見舞われてどこへも行けず、望むところでもあったが、風呂三昧・おしゃべり三昧の旅になった。

初めて乗った秋田新幹線こまち号は、前後の座席の間が狭く、ゆったり感がない思った。
盛岡から内陸に向かい次の駅が雫石。ここで下車し、送迎車で20分。
400年の歴史があるという鶯宿温泉は、周囲を山に囲まれ、鶯宿川に沿って並ぶ宿も木造建築が多く、どちらかと言うとひなびた湯治場という感じ。
着いてすぐ、ブラリとした温泉街は3〜40分で一回りでき、たまに会う土地の人が「ごくろうさんです」と私たちに挨拶してくれた。
宿に戻ると、駐車場に大型バスが来ていて、そこに「あの長栄館に泊まる鶯宿温泉の旅」とステッカーが貼ってあり、この旅館は結構有名なんだと知った。
リニューアルされた宿は、ロビーも広々と気持ちよく,部屋も床の間がついた伝統的な日本旅館。
料理もこの値段では申し分ない美味しさ。温かいものは温かくして順序良く運ばれてくる。
久しぶりに細やかな、それでいて構われすぎもないサービスを受けた気がした。
従業員の人たちの素朴さと、何を聞いても丁寧に答えてくれるのが気持ちいい。土地柄なのであろうか。
温泉は特に素晴らしかった。
深く掘らないでも、すぐにお湯が出るという地形ということで、掛け流しの湯量の豊富なこと。無加温・無加水・全部の風呂を毎日入れ替えとあるのにも感激した。

到着した日の夕方から降り出した雪は,2日目、3日目は吹雪となり、ヒュ〜ウ〜とうなりながら積もった雪を空高く舞い上げ、そのたびに周囲の山々の姿は掻き消え白いカスミの世界となる。
はめころしとなった北側の大きな窓から、初めて見るその光景を飽かず眺めながら持ち込んだ冷酒などを飲んでしゃべった。そして吹雪が少し弱まった頃を見計らい露天風呂に入る。それでも雪がビシバシと顔に当たる。
「極楽ねー」とはしゃいだ。
2泊3日で29800円の旅はとても満足であった。


06/03/28
フートン

2ヶ所に植えた我が家のクリスマスローズは、どちらも今が満開。
園芸店だと名前のようにクリスマスの頃に,もう咲かせて売っているが、本来は、1〜2月の寒いシーズンに向かって咲く花らしい。
最近、種類も多く店で見かけると立ち止まって、見入ってしまうのだが結構値段も高い。人気のある花で、園芸専門家のあいだでも愛好家が多いと聞いている。
寒さのなかで、うつむき加減に咲き出す姿は、茶花にも似て感動的。
鉢に植えて室内で楽しむ人が多いようだが、水やりの苦手な私は、可能なものは地植えにしている。
真夏の直射日光を避けるため、低落葉樹の下に植えて5〜6年。
350円で買った小さな苗は、土地柄に合ったのか、花の後に少しの肥料を与えただけで、どんどん増え、大株に成長した。
私の持っているのは、一般的な赤紫色の一重なのだが、3月の声を聞くと枯れたような葉の間から花芽がふくらみ、次々と花を開く。一本の茎に1段、2段、3段と花がつき一寸見ないうちに20本以上の大株になって咲いていた。
そして、花の期間が長いのも魅力的。(花弁に見えるのは、実はガクで、だから枯れにくいとか)夏を感じる頃まで咲いていて、その頃はドライフラワー化して、それを活けるのもいい。
切花にして1本で挿すと山野草の風情なのに、大株だと豪華さを感じさせ、見るたびに癒されている。


06/03/21
フートン
1週間ほどシラミ騒動に巻き込まれた。
発端は「子どもたちにシラミがいるのよ。どうしたらいい?」という長女からの電話。
理解できず「シラミって?」と聞き返すと「シラミよ。髪の毛に。私にもいるかもしれない、少し前から痒かったから‥」と娘。
「えーっ。信じられない」と言って絶句。
それから二人で大声で笑ってしまった。悪かったかナー。
 よく聞くと保育園の園長さんからで「お宅の子二人にシラミがいる。すぐ連れ帰ってほしい」と電話があったらしい。
髪を結わこうとした年配の先生が見つけたということで「とにかく一緒に病院に行って」と言う長女の声は結構、動揺していた。
二人の子を園に迎えに行ってきた娘は、しょげていた。
シラミそのものにも驚いているのだが保育園の中に原因を作ったことにショックを受けている。
孫の髪を掻き分けると白いフケの様なものが両耳の後ろを中心に付着していて、指でしごかないと落ちない。「これがタマゴか」と思った。
「毎日シャンプーしているのにね」と娘。
皮膚科で待つこと3時間。
話題は、原因の探索ばかり
「我が家は、汚いものね」(共働きのためもあるが、ほんとに片付かない家なのだ)
「去年行った、バリ島かしら」とアジア説まで。
診察室に呼ばれ、医師は、上の孫の毛髪から3本ほどタマゴが付いているところを切り取りシャーレに乗せて顕微鏡でのぞいた。
「やはりシラミのタマゴです。頭ジラミですね。成虫もいるはずです」
「対処法は医薬品としての薬がないので、薬局で売っているスミスリン(医薬部外品)でシャンプーしてください。家族中でね」といった。
そして「日本ではシラミは絶滅したわけではないんですよ。何かの折に発生し、接触感染で広がっていくようです」と続けた。
そのあと、看護婦さんが「3〜4回、スミスリンでシャンプーすればいなくなりますよ。保育園だと他にもいるんじゃーないかしら」とこともなげに言った。
娘も私も「エッ」と我に返る思いがした。
「この子たちが犯人?ではないかも」二人とも同時に考えた。
そう考えると気の強い娘の行動は早い。
診察の結果を知らせるためにもと園に電話。保育園では次々と見つかる感染者に対応に追われていたらしい。
この孫たちが発見第一号だっただけ。
「決め付けて厳重な注意をした」ことを園長は丁重にお詫びをしてきたという。
翌々日に控えた卒園式に大きな支障が出るため、その日は全員登園OKにもなった。
娘の気持ちはすこし納まったようだったが、園に言われたように、フトンから衣類までかなりの量をクリーニングに出していた。
シラミのタマゴ(おそらく成虫も)は、一回のシャンプーでほとんどいなくなったといっていた。劇薬なのかしらとこれも心配だったが‥。
後日、プール感染が結構多いという話を、これも体験者から聞いた。


06/03/14
フートン
 ファンである作曲家の池辺晋一郎氏が、あるインタビュー記事の中で「何ほどのこともなく作曲していたい」という言葉が好きだと言っていた。
 これは亡くなった武満徹氏(作曲家)の言葉なのだが、池辺さんが常日頃、考え、探していた言葉そのものだったという。
作曲をするために、何も構えたり、自分の主張を推しつけたりしない。
「ねばならない」が何もない状態で池辺さんはまさに、その通りに生きているらしい。
クラシックから映画、テレビドラマまでの作曲を幅広くこなし、司会、エッセイなどもこなす非凡な能力には脱帽なのだが「となりのおじさん」「そばにいたら気軽に話しかけられそう」と感じさせる人柄は、そうしたところからにじみ出るのかと納得する。
「空を見てますか」というエッセイも、真理を突いていながら平易な文章なのがとてもいいと思っている。


06/02/28
フートン
スポーツ観戦にあまり興味のない私にはトリノのオリンピックも、いまいち。
けれど今回、フィギュアだけは、たっぷり見てしまった。
華麗で完璧な荒川静香の演技もよかったが、憂いのある村主章枝のすべりもステキだった。それにスケーティングに使われる曲目には、いつもながら耳をそばだてされている。
各選手が思いを込めて選ぶ曲だけあって、聞いているだけでも楽しい。
最後のエキシビションで、男性の金メダリスト(フィギュア)ロシアのプルシェンコは、初め「トスカ」を使いみごとな演技を披露した。
そして、アンコールに応えもう一度現れたが、その時の曲がたしか「カルーソー」とアナウンスされていたように思う。
「エンリコ・カルーソー」が歌うオペラの一節なのであろうか。
張りのあるテナーが氷上に流れ、このCDを欲しいと思った。


06/02/21
フートン
ユザワヤ(手芸店)を歩いていて、久しぶりに掘り出し物(私にとっての)をみつけ、少しはしゃいでいる。
黄土色と黒のカスリ模様の布地で、その濃淡の出具合がとても気に入った。
ラベルには綿65%・麻35%、巾37センチとあった。
手に取るとシャリ感があり、少し透けるうすさに、奄美諸島の芭蕉布を思い出す。
昨年夏の品なのだろうか。でもよく残っていたねーと感激した。
布は5・5mもあって,すぐには使い道も思い浮かばなかったが、半額という値段にもつられ全部買うことにした。それでも5000円ちょっと。
インテリアのショップで、これだけ気に入ったものを手に入れようとしたら相当高いはず。とすごく得した気分になった。
支払いをしながら店の人に聞くと、やはり沖縄のものだという。
『小巾物はなかなか入ってこないんですよ』という話を聞き、ますますラッキーと思えたのだった。


06/02/14
フートン

 今日は2件、心が痛む事実を知らされた。
1件は夫の身内の1人に、子宮ガンが宣告されたこと。
彼女はまだ30代前半で1才にならないこどもがいる。
そしてもう一件は、私の身内でやっぱり30代前半の女性であるが、子ども二人を婚家に残し(10歳と6歳の女の子)離婚したという電話。
2週間ほど前、近所に住む義妹に乳がんが発見され、そのことも引っかかっていたのでなおさら気が重くなった。
夜、人を招いていたので、ちょっとだけ普段と違う料理を作ったが、これらの話が不協和音のように鳴り響きとても疲れた一日だった。


06/02/07
フートン
「高血圧は薬で下げない」という編集長のブログに勇気づけられた。
我が家は、夫が肝臓病を病んだ20年前あたりから、身体に異物を入れないとする東洋医学志向で医者からもらう薬は、最低限に飲むようにしている。
そして自然治癒力を信じる。
しかし,年を経るにつれ不安もあるのも事実。
 義母は3年前の90歳の頃、ガンが発見され(ステージ3といわれた)切除。
泌尿器系だったので退院後、病院に行くのを嫌がり、それまで通っていた内科、整形外科眼科などまでも、すべて行かなくなってしまった。
当然それまで長年飲んでいた(義母はきちんと飲む方だった)、安定剤(睡眠導入剤)、痛み止め、栄養剤の類などもストップ。
しかし手術後、体力が戻る頃には、術前にずっとあったかゆみ、頭がボーっとする感じ、口の乾き、不眠などが消え次第に会話も鮮明になってきたのである。
子どもたち(義母の)が来て「母さんすごいね、何の薬も飲んでないなんて」とびっくりする。
 足腰は相当弱っているし、物忘れも激しいのだが、すっきりした快適そうな表情になっているのを見ると、薬の副作用だったのだと改めて感じている。


06/01/31
フートン
ホリエモン事件が起きたとき「どうして、この時期に?」という声を何回か聞いた。
マンション耐震偽装問題の中で安倍晋三氏の名前が出てきて、やっぱり国会議員の名前が出てきたと思っていた矢先のことだったので、ホリエモンでまたうやむやにする気ではと考えてのことである。その真偽のほどはわからない。
それにしても安倍氏の「かかわっていない」と否定したときのヒューザーの小島社長並の言動はなに??
「正体見たり!」「意外と小心者ね」と、そのシーンをテレビを見た女性群の批評はきつい。
しかし、ホリエモンの法の隙間をかいくぐった錬金術が明らかになるにつれ、話題はそこに集中。汗水たらさずに巨万の富を得ることへの反発は、特に中高年のおじさんやおばさんに強いようだった。
そして、政治権力におもねず捜査に踏み切った検察側を「よくやった」とたたえる。
マスコミを操り、我々から見ても何となくあやしげな商法で、巨額の富を手にしていったホリエモンの姿を良しとし、持ち上げていく社会風潮に警鐘を鳴らした役目は大きいと。
果たしてそうした思惑だけの逮捕と考えていいのだろうか。常日頃のニュースが信じられない私は、すぐ勘ぐりたくなる。

次々と新しい事件が、よく起きるものだ。
この事件でホリエモンを「わが弟、息子です」「若者の目標とする人物です」とおだて、選挙戦に利用した(された?)自民党は、そのことを指摘されると「反省すべきは反省し‥」と武部、竹中両氏が,全く同じ調子で謝るそぶりを見せているが少しも誠意が感じられない。


06/01/24
フートン
 この冬初めての雪が降った。それも本格的な降りだったので景色が一変する。
過疎と高齢者の村々を直撃する豪雪被害のニュースが流れる中、申し訳ないのだが、久しぶりの雪景色は非日常となって、ちょっと嬉しい気もした。
 その日、ある人権団体の「新年の集い」があったので雪の中を出かけた。
バス停から15分ほどのところにある会館へ行くのに、住宅街の中を歩いていたのだが,風も少しあって雪がまといつくようにコートやバッグに積もり、深く考えないで着てきた服を反省した。
でも、両側に並ぶ家の庭は、落葉樹の枝に積もった雪が鮮明な白黒のコントラストを作り出し、柔らかな枝ものは、しだれ桜のようにしなみをつけて垂れ下がり、そこに赤い実をつけたりして飽きない風景が続いていた。
開演20分前ほどに着くと、少し人垣ができていて「この雪の中をどうも‥」と熱い歓迎を受ける。
約50人ほどが参加した。
終了は5時少し前。
雪は止んでいて、車の音のしない世界が広がっていた。
少しアルコールの回った頭の中で、先ほど聞いたジャーナリストの言葉が思い出される。
アジアの中で孤立する小泉外交、与党内でもアメリカさえも困惑しているという靖国発言。
小泉さんの中では、右翼思想政治家の影響力が増大しているのではないかと話した。それに盟主(大国)意識。
それは、満州事変を起こし、その後高まる世界の批判の声にも聞く耳を持たず第二次大戦に突っ走っていった日本政府の姿とよく似ているのだという。


06/01/03
 新年を迎え、二人の娘夫婦一家がそろい久しぶりに賑やかな日を過ごした。
孫たちの、笑いさんざめく声が心地いい。
全員が揃うとわかってから、やっぱり家庭味の伝統おせちを食べさせようとフル回転した。
食べてくれる対象がはっきりすると、作りがいもあるというもの。
出番の少ない漆器類や、大皿、冷酒用のちろりなどを出しながら楽しいなと思う。

5人兄弟姉妹の長男だった我が家は正月になると,多いときで30人の来客があり、本当に忙しかった。それは義父が亡くなるまで27年ほど続いた。
でも、そのときの経験が基礎になったのか、人を招くのは結構好きだ。
最近はめっきり回数が減ってしまったが、まだやれる体力と気力があることを幸せに感じた。
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